さすらいの青春

 アラン=フルニエの無比の青春小説、「モーヌの大将」の映画化だが、この映画と「華麗なるギャツビー」とは同じ構造の原題である。前者はle Grand Meaulnes で、後者はthe Great Gatsby。恋に身を捧げる男をその友人が見守るという構造も同じ。それもそのはず、フィッツジェラルドの小説はフルニエの小説からインスピレーションを得ているからだ。だから、「華麗なるギャツビー」は「ギャツビーの大将」でもよく「さすらいの青春」は「華麗なる(は意訳過ぎるから)―偉大なモーヌ」でもいいわけだ。そんなわけにはいかないけど。
 この映画は映画館で見たのだが、あまりに夢幻のような場面が続くので、不覚にも途中少し眠ってしまった。もう一度ちゃんと見てみたいのだが、字幕のない直輸入版ならDVDがあるけれど、いまだ日本語のDVDがないという状態。原作小説なら何と五つの違う翻訳で入手できるというのに、
 小説のキメの言葉は、「あの名もないお屋敷を発見したとき、あのときぼくは、この先もう二度とはたどりつけないほどの高みに、完全と純粋の段階に達していたんだ。いつか君に書いただろう。ただ、死においてしか、あのときの美しさにはもう出会えることはないんだ。」(田辺保訳)というもの。これを読んで映画を見たくならない人は、間違いなくもう青春とは無縁の人だろう。
 2006年にも映画化されているが、こちらのほうはうまくするとネットで全編見られる。もちろん字幕なしだけど。でもこちらの方は原作とかけ離れすぎているし、キャスティングもよくない。男性の理想の女性たるべきイボンヌが、どちらかというとイケイケ派の石田えりのような女優で、何を考えているのか赤いドレスまで着せている。イボンヌの弟で永遠に大人にならない青年フランツに至っては大泉滉みたいな顔の役者が扮しているし。やはり、イボンヌは「禁じられた遊び」の無邪気な幼女を内に含むブリジット・フォセーでなければならないし、フランツは「ガラスの部屋」のアラン・ヌーリーでなくちゃ。

1968年 フランス ジャン=ガブリエル・アルビコッコ