マルホランド・ドライブ

 町山氏が「映画ムダ話」に「マルホランド・ドライヴ」をアップした。是非聞いてみたいが、聞く前に自分の感想を先に書いておこう。
 この映画を初めて見たとき、見終わった途端に、その不可解さに「えーっ」と叫び、直ちにもう一度最初から見直した。二度、三度と見て初めて、この映画を了解するために必要な、その物語の構造がつかめた、と思った。
 謎の青い鍵と青い箱を結節点にして、前半・後半に分かれる映画だが、後半が現実で、前半が、ヒロイン(ダイアン/ベティー)が死ぬ寸前に見た幻想の世界、現実から照射された願望の世界、という解釈で一応スジは通る。
 現実の世界は錯乱し、汚濁に塗れ、凶暴である。一方の願望の世界、夢見られた世界は、憧憬に導かれ、未知への期待に満ち、優しく、穏やかな世界である。この二つの世界の橋渡しをするのが、謎の青い鍵とその鍵によって開けられた小さな青い箱で、二つの世界の間には、フロイト的な転移があり、抑圧を充足に転ずる読み替えがある。あるいは二つの世界は、ラカンの「現実界」と「想像界」ないし「象徴界」との対立である―というような精神分析的解釈がこの映画の楽しみ方だ。この映画に見られる、不幸な現実を幸福な願望の世界に転換させる仕方を、私は密かに「マルホランド変換」と呼ぶことにした。呼んだからと言って別にどうということはないのだが。
 以下、「マルホランド変換」の例を順不動で。□現実→○願望の順で。

 □ダイアンはマルホランド通りの中ほどで車を止められ、そこからカミーラの案内で崖を上がって(近道)アダムの邸宅に行く(ダイアンはカミーラとの愛が帰ってきたかのように思ったが、そこでアダムとカミーラの結婚の予定が発表される。→○リタがマルホランドの中ほどで事故を起こし、そこから崖を下って、サンセット大通りに行き、ベティの居所に紛れ込む。
 □結婚の予定発表の席で、苦いコーヒーを飲んでいるダイアンにの視界にある男の姿が映る→○その男が芸能界の実力者となり、アダムに指示を伝える場で、コーヒーをまずいと言って吐きだす。
 □叔母が死に、ダイアンに遺産が入ったが、その金が殺し屋への手数料となる。→○叔母はまだ生きていて、しかも有名な女優で、ベティの芸能界進出の足がかりになりそうだ。
 □ダイアンが殺し屋と話したレストラン「ウィンキー」で男の姿を見かけた。→○その男がダイアンの罪悪感の象徴となり、店の裏手で、罪悪の象徴である黒い顔の男に会い、卒倒する。
 □殺し屋は相談の時に何か黒い本を持っていた。→○カミーラを殺せば、芸能界における自分の立場に変化が出てくるだろうという願望が、芸能界の秘密がすべて記載されている「エドブラックリスト」という黒い本になり、殺し屋がそれを探している、とする。
 □映画監督アダムはダイアンから、恋人のカミーラを奪い、彼女に主役の座を与えた。→○アダムはむしろベティーに興味があるように、ベティーをじっと見つめる。またアダムに役を決定する力などなく、影の実力者の言いなりになるだけだ。またアダムはカミーラを奪うどころか、逆に妻を掃除夫に寝取られている。
 □ダイアンの自殺寸前の脳裏に浮かんだ自分の死体の姿。→○殺し屋に殺されたリタの腐乱死体。

 町山氏の話は、裏話が満載なので、今から楽しみだが、彼の問いかけに一応答えておくと、
 ①ハリウッドを見下ろす丘を走る道路マルホランド・ドライブで大破した車から出て来た黒髪の美女の正体は?
 →現実の世界では、ダイアン/ベティ(ナオミ・ワッツ)の恋人で、ダイアンを捨てて映画監督アダムの愛を受け入れ、役を獲得した女、カミーラ/リタ(ローラ・ハリング)。カミーラを苦境に落とし入れ、彼女を助けることで再び彼女の愛を得ようとするダイアンの願望が反映された夢。
 ②彼女はなぜ殺し屋から狙われているのか?
 →現実の世界でダイアンが実際に、カミーラの殺害を殺し屋に依頼している。それが、ベティーがリタを救う話に転化されている。
 ③女優を目指すベティに迫る笑う老夫婦は何者?
 →ベティ/ダイアンに女優としての活躍を期待している素朴な両親のイメージ。ベティーの、ベーシックな強迫観念になっている。しばしば親というものは過剰な期待で子供を殺してしまうものだ。飛行機の中で初対面のこの老夫婦に好かれてしまうということは、あるいは逆に、現実の世界では、ダイアンに厳しい両親だったのかも知れない。
 ④ハリウッドを仕切るカウボーイとは?
 →カミーラの裏切りの場にたまたま通りかかった男。カミーラの裏切りの行為が、ハリウッドでのし上がるのに必要だという、ダイアンの苦い覚醒が、このカウボーイに転化された。
 ⑤青い鍵と青い箱には何が入っている?
 →人間の、潜在意識ないし無意識
 ⑥アパートで死んでいる女性は誰?
 →カミーラの殺害を依頼したことを後悔して自殺したダイアン。または殺されたカミーラの腐乱した死体。

2001年 アメリカ・フランス デビッド・リンチ

暗くなるまで待って

 好きな映画だったが、今日BSでやっていた放送をもう見る気になれない。悪漢アラン・アーキンが盲目のオードリー・ヘプバーンを誑かすために、色々な人物を偽装するところが、演技の見所なのだが、そんな芸があるんだったら、麻薬売買じゃなくて、もう少しマシな事をしろよ、と突っ込みたくなる。まあ、いろいろやって「お遊びはここまでだ」となるのは、一つのパターンなんだが。
 ラスト・シーンには少し違和感を感じる。あんだけ怖い目に会ったオードリーをダンナが最後に自分のところまで歩かせるところ。「さあ、自分の力で歩いておいで」とか言って。こういうときは、盲人のサバイバル教育は後回しにして、とりあえず一も二もなく駆け寄って抱きしめるのが正しいやり方、と思うのは日本人だけか。
 どこかの映画館で、二回目に見ていて、最後にアラン・アーキンが暗闇で立ち上がるところを、隣の同伴者にショックを与えないために寸前に教えたつもりが、その声が周囲に聞こえてしまい大顰蹙を買ったのは私です。すみませんでした。もっとこのブログもネタバレを気にしないで書いているので、顰蹙を買う点では同じなのかもしれないけれど。

1967年 米 テレンス・ヤング

アフターライフ

 生きているのか死んでいるのか最後まで良く分らず、どうやら生きていたようで、しかし、恋人の青年にようやく助けれられめでたしめでたしというストーリーが見たかったわけではないが、それとは逆の結末を見せられると、その根底にある死生観というものの見当がつかず、サイコな中年男のキリストのナザロの復活への言及あたりをヒントにして、キリスト教的終末観の歪みのせいにして済ませたいが、そうもいかない。
 要は、生きる価値を知る(知らせる)ために、死んだように生きている人間を殺していく、連続殺人犯たる葬儀屋の話らしいが、生き埋めにされるという話がしばしばホラー映画のネタになるのは、やはり土葬民族に潜在する恐怖感の表れだろう。かといってわれわれのような火葬民族に生きたまま焼かれる恐怖が潜在している訳でもないし、むしろ、西欧人が一方で火葬をも嫌うのは、魔女を火あぶりした過去の悪行のトラウマらしい。

2009年 米 アニエシュカ・ヴォイトヴィッチ

さすらいの青春

 アラン=フルニエの無比の青春小説、「モーヌの大将」の映画化だが、この映画と「華麗なるギャツビー」とは同じ構造の原題である。前者はle Grand Meaulnes で、後者はthe Great Gatsby。恋に身を捧げる男をその友人が見守るという構造も同じ。それもそのはず、フィッツジェラルドの小説はフルニエの小説からインスピレーションを得ているからだ。だから、「華麗なるギャツビー」は「ギャツビーの大将」でもよく「さすらいの青春」は「華麗なる(は意訳過ぎるから)―偉大なモーヌ」でもいいわけだ。そんなわけにはいかないけど。
 この映画は映画館で見たのだが、あまりに夢幻のような場面が続くので、不覚にも途中少し眠ってしまった。もう一度ちゃんと見てみたいのだが、字幕のない直輸入版ならDVDがあるけれど、いまだ日本語のDVDがないという状態。原作小説なら何と五つの違う翻訳で入手できるというのに、
 小説のキメの言葉は、「あの名もないお屋敷を発見したとき、あのときぼくは、この先もう二度とはたどりつけないほどの高みに、完全と純粋の段階に達していたんだ。いつか君に書いただろう。ただ、死においてしか、あのときの美しさにはもう出会えることはないんだ。」(田辺保訳)というもの。これを読んで映画を見たくならない人は、間違いなくもう青春とは無縁の人だろう。
 2006年にも映画化されているが、こちらのほうはうまくするとネットで全編見られる。もちろん字幕なしだけど。でもこちらの方は原作とかけ離れすぎているし、キャスティングもよくない。男性の理想の女性たるべきイボンヌが、どちらかというとイケイケ派の石田えりのような女優で、何を考えているのか赤いドレスまで着せている。イボンヌの弟で永遠に大人にならない青年フランツに至っては大泉滉みたいな顔の役者が扮しているし。やはり、イボンヌは「禁じられた遊び」の無邪気な幼女を内に含むブリジット・フォセーでなければならないし、フランツは「ガラスの部屋」のアラン・ヌーリーでなくちゃ。

1968年 フランス ジャン=ガブリエル・アルビコッコ

エージェント・ライアン

 事務系・学識系の人間が、いきなりエージェントとしての行動を強いられてしまうシチュエーションがこのライアン・シリーズの魅力の一つ。いざ動き出してみれば、他の生え抜きのエージェントよりはるかに優れた能力を発揮し、その頭脳力で勝ち抜いていくという様子は見ていて心地よいが、それは現代の数少ないお伽話的教訓話を見るときの慰撫的心地よさだろう。
 初代ライアンは「レッドオクトーバーを追え」のアレック・ボールドウィンソ連の原潜の不審な動きを亡命と見抜き、その自説を証明するために、やむを得ず冒険を強いられていく。お偉方を前にした会議でライアンが熱心に、しかし理路整然と自説を開陳していくシーンは、好きな場面の一つだ。
 ハリソン・フォードは二代目ライアンとして「パトリオット・ゲーム」と「今そこにある危機」に出ているが、この二作では、その知らないうちに行動に追いやられるという「巻き込まれ感」はあまりない。「パトリオット・ゲーム」で、大学で講義をするほどの学識系の男が、目の前で起きたテロに銃で応戦したためにテロリストに逆恨みされ、やむなくそれと対峙するというだけだ。しかし、この映画で、テロリスト殲滅の衛星画像による実況中継が、CIAの作戦室で見られているというシーンを、多分映画ではじめてわれわれは見たのだと思う。「今そこにある危機」では、麻薬ディーラーたちが、家族ともども集まっている家に、米軍が衛星で誘導されたミサイルをぶち込む。これらの先端の軍事技術の開陳に、実に驚く思いをしたものだ。映画の観客だから、これらの殺人テクノロジーの進化に、恐れおののくというより、単純に面白がっていただけだが。
 三代目のベン・アフレックで、ようやく「巻き込まれ感」が復活。ハリソン・フォードの前作で、CIA副長官まで出世したライアンをわざわざ現場に戻したのだから当然か。たまたまロシアの新リーダーになった男の分析論文を書いていたために、末端の分析官ライアンが諜報の中枢に呼び出されてしまう「トータル・フィアーズ」。敵側の主要人物の体型の変化からその健康状態を分析しているような、瑣末な情報分析の現場にいた男が、諜報行動の最先端に行き、第三次世界大戦を防止する大役を担ってしまう、というのは、植木等の出世物語を見ているようで気持が良い。ベン・アフレックはこの映画では、モーガン・フリーマンに食われてしまっているけれど。それに日本人としては、この映画は核爆弾を衛生化しているという意味で、よろしくない映画である、と一言言っておかなければならない。原爆がただの爆弾の規模がチョーでかいもの、という扱いだ。本当に都市で核爆発があったら、こんなに簡単に米ロが和解できまい。パニックを抑えるために被害状況を隠匿しようとしても、もうそれが出来ない時代である。
 数えると、今度のクリス・パインは四代目か。どう見てもインテリタイプは見えないので、これはミスキャストと思い、あまり見る気がしないでいたが、見てみてればそこそこ面白い。期待してなくて見ると、結構いいのかも。これは原題のshadow recruit が言うとおり、エージェントにリクルートされるのが発端だから、「巻き込まれ感」は全くない。そもそもこの映画はライアンをリブートしたものとしているから、そこに不満を言ってもしょうがない。

2014年 米 ケネス・ブラナー

小さいおうち

 心動かされた映画。女優陣に比べ、主役の男優(吉岡秀隆)が、ちょいとショボイけれど。なんてったって、松たか子と不倫するからには、「満男」クンではなく、それなりの男優に演じて欲しいところ。いくら丙種合格の青年という設定だからって。妻夫木聡は、狂言まわしだから別として。
 ベルリン国際映画祭最優秀女優賞(銀熊賞)を取った黒木華(はる)の、その純朴さの演技に心ほだされる。年老いてからの彼女(たきちゃん)の役をやったのは、「満男」くんのおかあさん「さくら」の倍賞智恵子。そのやつれた老婆が彼女だとは最初気づかないでいたが、もしやと思い、そう思ってその声を聞けばまさしく彼女。その青春の盛りには「月よりの使者」を朗々と唄っていた女人の、その小さく老いた姿に感無量。
 ちいさな赤いおうちが、空襲で焼かれてしまうシーンには胸が張り裂ける思いがした。ベルリンの観客には、日本の戦争の実相がちゃんと伝わったのか知らん。妻夫木が、「南京大虐殺」について、日本人の誤解を代表した発言をしており、映画内ではもちろん、その発言が否定されることはなかったので。やはり、日本人は声高に異議を唱えるなどという下品なことはようできない。そもそも政治映画ではないし、現代の若者の認識と、実際にその時代を生きた人間の感覚を対比させる、というのがこの話の主眼の一つなんだけれど、そんな微妙なものが全く伝わらない人たちがいるのだ。シナの人がこの映画を見たら、「ほれ見ろ、日本人が自分で言っているじゃないか」ということに間違いなくなる。そんなことを考えると、黒木華にほだされている場合じゃないな、と苦い現実の前に引き戻される思いだ。

2014年 日本 山田洋次

カルメン故郷に帰る

 高峰秀子さんが脚を大胆に見せて奮戦しているが、1951年という年代を考慮しても、全体的に歌やダンスなどのパフォーマンスのレベルが低い。もっとも、踊子たちが自ら「芸術」と信じている歌や踊りの実相を示して、ペーソスをかもし出すという話なのだから、ここに文句を言うのはお門違いというもの。
 ただ、だから歌や踊りやよりか、無言で不動の浅間山のほうに存在感が出てしまう。この映画を通して終始、浅間山が、青空を背景にして、ショットのたびに噴煙の形を変えつつ、その鮮やかな山肌を見せている。これはむしろ、その浅間を見る映画として価値がある。レフ板を一体何枚使ったのかと思うくらい、画面には光溢れ、色彩も夢幻のように鮮やかな映画で、華やかな衣装をまとった、美しい高峰さんの蓮っ葉な娘っぷりが面白くはあるのだけれど、彼女が奮戦すればするほどますます浅間に遠く及ばなくなってしまう感じだ。カルメンたちは踊子と言い状、つまりはストリッパーで、言われてみればそれはそうなのだが、踊りの最後は、はっきり見せてはいないが、「全スト」になったということらしい。日本初の純国産総天然色映画である由。これを一昨年だかにカンヌに出品したと聞くが、大丈夫だったのか。色彩美だけで受けたのならいいけれど、総じてパフォーマンスが、劇中でてくる小学生の遊戯レベルなので、ついいらぬ心配をしてしまう。別に「雨に歌えば」(1952年)のシド・チャリシーのように踊って欲しいとは言わないけれど。戦争で盲目になった貧しい作曲家の披露する歌も、冗談かと思うくらいに低質なのだ。

1951年 木下恵介  撮影 楠田浩之