パーフェクト・ワールド

 この映画の一番印象的なシーンは、銃で撃たれた瀕死のブッチが草原に横たわっている冒頭のシーンだった。この時点では、観客はブッチが死に瀕していることは知らされていず、彼はまるでゆったりと草原に寝転んで昼寝しているようにしか見えない。最後に同じシーンが出てくる。その時はもうブッチは腹から血を流している。その時私は、多くの観衆がそうしたであろうように冒頭のシーンを回想した。まるで意味合いが違うものとしてみたそのシーンを。それこそがブッチが無惨に死んでいく「この世界」に比しての、ありうべき「完全な世界」の様に回想できた。
 草原でまどろむ「完全な世界」の中のブッチ。投げ出された彼の腕のふくよかな肉付きに、アメリカ的な豊かさ快活さが感じられる。まるでそれは,長いあいだ世界の夢の一部を引っ張ってきたアメリカ的なものの現前のように思えた。彼のまわりに風に吹かれてドル紙幣が飛び交うのも、貨幣の束縛から自由な「完全な世界」に彼がいる証のように思えた。
 しかし、「この世界」の中で彼は死んでいくのだ。少年に撃たれ、最後は警察官に撃たれて。
 物語が進行するにつれ、ブッチを犯罪に追いやったものの正体がだんだん観客に知らされる。幼児虐待という、肉に食い込んだトラウマがそれなのだ。そもそも十代の頃のちょっとした犯罪で彼がもっとも重い刑を科せられてしまったのは、彼を劣悪な家庭環境から解放しようとした警察署長の温情からだった。刑務所がどんなにひどいところかということを真に理解することは我々には困難である。そして刑務所以上にひどい家庭があるということはさらに理解し難いだろう。しかしブッチはそのような家庭に生きていたのだ。子供を殴る男を見ると、彼の中の凶暴性が爆発する。殴られている子供を見ると、気分が悪くなりコントロールを失う。
 彼が密かに、庇護することを通して自分の魂の癒しにしていた少年から撃たれてしまうという悲劇。彼は少年を赦す。彼にはその資格がある。彼はもっと大きな悲劇性の中に生きていたから。肌身離さず持っていた、父親がアラスカから寄こした一枚の絵葉書。その文面に余人には決して見出しえない「やさしさ」を彼は読む。アラスカに行ってブッチは何を確かめたかったのか。「機会があれば尋ねて来い。そして話し合おう。理解しあえることがあるかも知れない」

1993年 アメリカ クリント・イーストウッド