太陽がいっぱい

 青年の美髪はイタリアの金色の陽光を含み、その青いスーツは陽光を眩しく弾いている。朝の眩しい光にホテルの一室で覚醒する異国の眠り。たくらみごとの快楽に透き通る青い瞳。徹底的に、外部というものだけが力を持つ映画というもの。トム・リプレーの犯意の俗悪さという内的なものではなく、アラン・ドロンの長い睫が帯びる青い影という外形が、青年の憂愁の美しさとして観客に感受される。マルジュは平凡な画学生に過ぎないが、しかしマリー・ラフォレの瞳の中に燃える金色の炎が、乙女の恋情の崇高さとして観客に享楽される。
 トム・リプレーが犯す第一の殺人。そのとき海が突然のように荒れだし、波と風が彼を揺さぶり痛めつくし、最後には海に放り出してしまう。ある一線を確実に越えてしまったことの映画的な巧みな比喩。トム・リプレーが犯す第二の殺人。そのとき果物籠の果物が床に転がり落ちる。その印象派の絵画のような美しさ。そして放心したトムが窓辺に佇んで窓の外を眺めると、そこから子供たちの無邪気な歓声が聞こえてくる。もはや戻ることの出来ないかつての安息の世界の象徴であるかのように。
 裕福な親の金を頼りに放蕩無頼の生活をつづけるフィリップ。やがてその金を丸ごと奪取しようと意を固めるトム。トムのその意志は完全犯罪のほつれにより挫折する。彼はイタリアの安逸の海岸から消え去る。そしてレクイエムがその挫折に対して捧げられる。犯罪を咎めるのでもなく賛美するのでもなくただ鎮魂歌が奉ぜられるのだ。そういう時代もあったのだ。やがて映画では犯罪は無機的に描写されるか、それに加担するような擬似的な肯定のスタンスで描かれこそすれ、抒情的なレクイエムがそれに捧げられることはなくなっていく。心理的リアリティの平面上でもそれは不可能なのだ。
 魚市場を散策する印象的かつ効果的なインタールード。犯罪が進行する中で、果物にかじりつき、ローストチキンにむしゃぶりつく、絶対的な健康な食欲。ティーカップのソーサーにスプーンを置いたときのかすかな音さえが犯意の静寂の中で響き渡る。誇張され凝縮された光と音の藝術としての映画に、私が惑溺し始める契機になった映画だった。

1960年 フランス/イタリア  ルネ・クレマン