黒いオルフェ

 この映画を初めて見たのは、どこの映画館だったろう。内壁がスペイン風の白い土壁で、館内に幾本かの柱のある、小さな映画館だったような気がする。映画館の場所も名前も忘れ去ってしまうということは私にとって不思議なことだ。座席に坐っている分には何の問題もないが、壁際で立ち見をしようとすると、その太い柱が邪魔になるような、そんな不思議な内部構造の映画館だった。もちろん今では、映画を立ち見すること自体がなくなってしまったように、そんな映画館はどこにも残っていないだろう。
 つまり、この映画を見るには最適の環境を持つ映画館で、私はこの映画を見た。カーニバルの熱狂と、カーニバルが終った後の倦怠とを、ほとんど映画の進行に合わせてリアルタイムで感じていた。そして、狂熱のカーニバルが終わり、愛の物語も悲劇として終ってしまったとき、私はほとんど茫然自失の状態になった。見終わったあと、座席から立てないくらいの感動を覚えた経験は数少ない。この映画はその数少ない経験をもたらしたものの一つである。あたかも夢の中にいるような状態で映画館の外に出、映画館の外が現実であることを認めないまま、永いこと町の中を彷徨していた―だから映画館そのものも現実の一端として記憶の外に放り出してしまったのか。
 世界が終ってしまった、その翌朝、
 かつてオルフェがそうしたように、ギターで朝日を昇らせようと試みる少年たち。
 オルフェの遺品のギターを少年が弾き始めると、このリオの山頂の、断崖にしがみつくようにして暮らしている貧民たちの村に、朝日が昇るのだ。少女と少年たちの顔が新しい一日の光で明るむ。新しいオルフェウス、新しいエゥリデイケ。
 なんという見事な終結部だろう。
 光の粒子の一粒一粒が感じ分けられるような、強く眩しい熱帯の外光。それはつかのまの安逸の中にまどろむ寝台の上に、窓の外から容赦なく侵入してきて、人々を快楽へ覚醒させ、快楽へと誘惑してやまないのだ。
 その光の粒子の隙間を縫うように、ギターの音が響く。
 限りなく甘く優しくやわらかく。熱帯の乾燥した空気の中でギターの音すらが香ばしい。
 「昔、オルフェウスは悲しかった」
 カーニバルの夜に暗躍する不思議な死神。その存在理由については、観客は決して説明を与えられることはない。
 なぜ恋人は失われなければならないか。
 なぜ恋は終らなければならないのか。
 なぜ死があり、そして再生があるのか。
 これらの問いへの回答が不可能であるように、この死神の存在理由もまた説明不可能なのだ。自らに与えたこの生硬な解答を自分で気に入っていたが、そんな自分がどれほどナイーヴなのかというとに気づいていなかった。今では少しはナイーヴさから逃れて現実的になっているが、未だにこれ以外の解答は見つかっていない。
 本作を、単にフランス人の視点から見た悲恋物語に過ぎないとして、1999年にブラジル人監督カルロス・ヂエギスが「オルフェ」を制作した。この映画はまだ見る機会がないし、積極的に見る気にもなれないでいる。

1959年 フランス・ブラジル・イタリア マルセル・カミュ