サマー・ストーリー

 全く予備知識なく見て、すっかり心を奪われてしまった映画。後で調べたら原作がノーベル賞作家ゴールズワージーの「林檎の樹」であった。
 旅行先で農家の娘メーガンと恋に落ちた上流階級所属の青年フランク。彼は駆け落ちまで考えるほど彼女に惚れこむが、ちょっとした行き違いの間に心変わりをしてしまい、結局彼女を捨てることになる。物語は18年後、フランクが妻のステラとともに曾遊の地を訪れるところから始まる。ステラは、メーガンを捨ててその代りに選んだ同じ上流階級の娘だが、現在はすっかり俗化している。そしてフランクは、かの日の別れの後メーガンが死んでしまったことを知る。死因は難産である。フランクは知らずにいたが、メーガンはフランクの子を身ごもっていたのだ。
 この映画に心を奪われたのは、主人公フランクと同じような心変わりを、映画を見ながらまさに実際に体験した事による。まるで我が事のように恋愛というものを体験できたのだ。恋、その至福と痛苦とを。正確に言えばそれは実際の体験ではない。私の中ではすでに終わってしまっている恋というものを懐かしむ追憶のなかでのように追体験した、という方が正しい。
 イギリスの田園のなかに現れたメーガンはほんとうに美しい。黄金色の髪が風になびき頬がバラ色に上気している。羊小屋の中で結ばれるに至るまで、一途に燃え上がるモーガンの恋情が可憐である。フランクのほうもその真情から駆け落ちを決意し、その資金を得るために街に下りてくるが、そこで旧友とその妹ステラに偶然逢ってしまったのが不運だった。彼らとともに街で一夜を過ごした翌朝、金の引き出しに手間取って汽車に乗り遅れたフランクはそのままズルズルと街にとどまってしまう。そして夕刻、次の汽車の時間が来ても、フランクはステラとともに街で過ごすことを選んでしまうのだ。翌日、たまりかねてモーガンがフランクを探しに街にやってくる。しかしその時、フランクの心は変わってしまっていた。街とステラとが指し示す、上流階級の文化の中に彼は戻ってしまっていた。ただの田舎の娘から、テニソンを愛読するステラのほうへと心は動いてしまっていた。必死でフランクを探すメーガンの姿をフランクは見かける。フランクは彼女の前に姿を表わそうとしない。ただ黙って後をつけるだけだ。このときのフランクの心事を観客の私は理解した。不実なフランクを詰る気にはなれなかった。街中のメーガンは、いかにも野暮ったい田舎娘にしか見えなかったからだ。その質朴な服装のためばかりではない。かつてその美しさを愛でた、光を含んだ彼女の髪もなんだか垢抜けないものにしか見えない。彼女とテニソンを語るのは、ムリだろう。ずっとフランクに後をつけられていたメーガンがその気配を感じて後を振り返った一瞬、フランクはあわてて物陰に隠れる。このとき決定的に何かが終わったのだ。純愛が打算に置き換えられた。至上の恋がこんな卑小さで終わってしまった。この痛切な感覚。これがよくあるように、「フランクってなんてバカなんだ、オレだったら絶対メーガンとの駆け落ちを遂行するのに」というような感想を抱きつつ見たのであれば、この痛切さは身に迫ってこなかったろう。冒頭で俗化したステラをすでに見せられた後でも、観客の私も、街という場所とステラという女性とに絡め取られていた。それはまたイギリスの階級社会が強いる断絶というものを思い知らされたということでもある。フランクとメーガンとが仮に結ばれても、その生活が悲劇に終わることはあまりにもあきらかなことである。フランクとステラが過ごしたわずか二日ばかりの街での時間がそれを教えるのである。
 あの日、フランクが街を去った後、何日もメーガンは街の中を探しまわっていた。漸く村に戻った彼女はすっかりやつれ果てていた。村はずれの丘に来る日も来る日も立ち続け、フランクが彼女を迎えに現れるのをずっと待っていた。そこは初めてフランクとあった場所である。メーガンは回りの反対を押し切り子供を生んだ。大変な難産の果てに彼女は死んだ。彼女は遺言に二つのことを残した。子供にフランクという名前を付けること。自分の墓を村はずれの丘に作って欲しいこと、と。
 村を去るフランクの耳に「フランク、フランク」という呼び声が聞こえる。二人を乗せた車が狩から帰ったきた青年とすれ違う。青年は屈託のない笑顔で二人に会釈する。ではこの青年がフランクなのか、メーガンの遺児、二人の子供なのか。
 フェミニストが見たら、男性セクシズムのとんでもない映画、ということになるだろうし、ポスコロ系でもヨーロッパを蹂躙したフランク族の横暴を糾弾するもの、とかになるのかも知れないが、私は、最後の野を渡る「フランク」という呼び声に、ヨーロッパ文明のかすかな香気を嗅ぐような思いをした。この大自然に祝福されているような幸福な青年の出現が唯一の救いである。これに相当する場面は原作の「林檎の樹」にはないが、地上のどんな悲劇でも、その傷を癒すのは新しい無垢な世代であることを思い、しばし感銘に涵った。

1988年 イギリス ピアス・ハガード