死刑台のエレベーター(2010年)

 そのつまらないオリジナル映画が日本でリメイクされた。日本、というよりも2010年、という製作年代に期待した。「現在」の製作者がこの物語になおも見出した面白みは何か、ということに興味が湧いた。物語を現在に移行するためのアレンジの仕方にも興味があった。しかし第二の殺人を担当するチンピラの青年が、なんと警察官という設定になっており、殺されるほうの行きずりの夫婦が、こちらではヤクザの親分とその情婦になっている。チンピラはここではその警官に暴力を振るわれる側で、その暴力があまりに粗雑なので、ここで見るのをやめようとよほど思ったが、結局なんとなく最後まで見てしまう。― 随分ガラの悪い映画にしたものだ。リアルタイムでオリジナルの映画を見、ヌーヴェルバーグに心酔していた人が見たら、このガラの悪さに、怒り心頭に発するだろうと思ったが、そのようなクレームはないようである。主演女優、吉瀬美智子がオリジナルのジャンヌ・モローなど及ばぬほどの美形なのは嬉しいけれど、その美形が感傷的な音楽のせいで台無しになるような感じだ。渡辺香津美のギターは、よく言えば情感たっぷりの音楽なのだが、その湿度がやっぱり日本なのである。私にはマイルス・ディヴィスの音楽とこれとを比較する耳はないが、都会人の孤独というよりは、べたついた人間関係を感じさせる音楽だ。それに彼女がトイレでパンティを下ろして便座に腰掛けているシーンに、彼女の内白が流れるところ、洋画なら違和感がないかもしれないが、日本文化という負荷を帯びてみている私からはひどく滑稽な場面に見えた。トイレで語るなよ、とツッコミを入れたくなる。さらに気持ちが悪いのが、平泉成扮するヤクザの親分と津川雅彦扮する会社社長の二人が、かつて「さんざん悪さをした」仲という設定。この「悪さ」というものはいかにもいい加減な日本的な悪のありかたなのだが、心が冷えるような思いになったのは、かって大陸での蛮行を「悪さ」と思いなしていた人たちが、ついこないだまで日本には生きていたのだ、とふと考えたせいだ。そこに、さきのヤクザの手下の三下たちと警官とのケンカの場面の粗雑な暴力が重なる。
 こういう洋物の日本翻案を見ると、いやでも日本人の特性を考えさせられてしまうが、そこに日本人の美質などが出ようもないのはどういう訳か。笹野高史扮する、のほほんとしたビルの守衛が仕事の合間に植木に水をやるあたりを、その美質の代わりにされてはたまらない。どうして日本ではヤクザだけがリアリティのある人間のように見えるのか。柄本明扮する刑事は、ドンパチしない分まだリアリティがあるが、彼の演技の存在感を褒めたくらいでは、とうてい埋め合わせがつかないような不全感が残る映画だった。

2010年 日本 緒形明