アマデウス

 天才を同時代人として持ってしまった男の苦悩と恍惚を演じてオスカーを取ったF.マーリー・エイブラハムの演技も見応えがあるが、同じく美術賞を取ったウィーンの宮廷の豪華絢爛たる装飾の再現もまた素晴らしい。オペラにイタリア語を使うべきか、ドイツ語を使うべきか、ということを巡る宮廷内の確執は、石井宏「反音楽史」の論旨を思い合わせると興味深い。音楽史から享楽的なイタリア・オペラを追放し、精神的な教会音楽を正統として位置づける偽史的意図、その意図はまんまと成功し、日本の学校音楽教室にまで、ハイドン、バッハ、ベートーヴェン肖像画が飾られるようになる。しかし実際に当時市井で受け入れられていた音楽は、華やかなイタリア・オペラだった。ハイドン、バッハ、ベートーヴェンの音楽を父のそれとすると、享楽のイタリア・オペラは放蕩息子の音楽。モーツァルトはその享楽の要素は残しながら、何とか父の言語ドイツ語によるオペラを実現するために心血を注ぐ。ヨーロッパで生まれた精神分析学が臨床的に普及したアメリカで作ると、モーツァルトの物語も父と子の確執の物語になってしまう。サリエリが死父/死神に偽装してモーツァルトを強迫し、過労死に追い込んだというのはフィクションで、彼がモーツァルトの盗作をしたり、モーツァルトを毒殺しようとしたと非難されるスキャンダルはあったが、それは宮廷におけるイタリア人のサリエリとドイツ派との間の、皇帝の寵を争う戦いの中で流された話らしい。それでもやはり、天才が凡人の嫉妬によって破滅するというのは、抵抗しがたい魅惑的な仮説である。

1984年 アメリカ ミロシュ・フォアマン