裸足のマリー

 たかだか二時間に満たない時間の中で、一人の女子高生とともに、ブリュッセルからリスボンまでのオン・ザ・ロード・ストーリーを味わうことができる。これは小説などに較べて映画がもつ大きなアドバンテージの一つだ。
 平凡な、どこにでもいる少女マリー。彼女は、性的放恣さからというわけでもなく、単に無自覚な感覚的生活の中で複数の男性と交渉を持ち、そのうちの一人の子を身ごもる。その男性はつれなく、あっさりマリーをふった後すぐにマリーの親友と性交したりして、自らも無自覚な生を生きている。母親は、娘を詰りながら堕胎を強要する。しかし、娘に問い詰められると、自分が娘を生んだこと自体が父親を引き止めるためのもので、本当は子供など欲しくなかったと告白してしまうような母親だ。
 別の男友達の家に身を寄せるうちに、その男の子供が母親を訪ねてポルトガルに行く旅に付き合うハメになる。犯罪に関与していたその男友達の参考人として警察に追われる中でのヒッチハイク。身分証明書を途中でなくしてしまい、証明書もなく二度も国境を越えなければならないその旅はステキにスリリングである。このスリルの最大の要素は、警察の追及でも、国境での検閲でもなく、肌が露出した夏服を着たマリーが、あらくれたちが行きかう道路の上を行く危うさ、ということでもなく、ただ理想化された母親を訪ねる少年の心が現実に裏切られるかどうか、という一点にある。幼少時に生き別れ、一枚の写真と何通かの手紙で膨らませられた理想の母親像。それはこの地上には存在が許されないあまりに理想化された母親像だ。次第に彼等の旅程が進み、スペインを抜け、ポルトガルに近づくにつれて、大きな不幸の予感から胸が締めつけられそうに苦しくなってくる。やはり節度ある映画としては、母を尋ねるマルコ少年のハッピーエンドではなく、当然この少年は現実に裏切られなければならないからだ。理想の母親というもののアンチテーゼは既に冒頭でマリーの母親として提示されている。理想の母親、そんなものは存在し得ないのだ。マリー自身の堕胎がそのことを決定的に証明するだろう。ようやくの思いで、あたらしい家族とともに豪邸に住んでいる母親にたどりつく。そして少年はあの写真の中の母親の美しい顔の実物を見、そしてその顔がたちまち醜い拒否の顔に変貌するのを見る。
 ここでもまた、出生の秘密が明かされる。少年は、少年の父親が彼女に対する報復として、また束縛の手段としてムリに生ませたもので、自分は欲しくなかったのだと、その父親の束縛を脱しポルトガルでようやく幸福を手に入れた母親は言う。マリーもその少年も、望まれてこの世に生まれてきたきたわけではないのだ。ちょっとした愛と快楽のために、生を押し付けられた、とマリーは言う。自分は、自分の中にいる存在に生を押しつけていないか。いや既に生を押し付けており、堕胎は理不尽な、一方的なその生の奪取なのか。
 母親に受け入れを拒否された少年の受けるであろう傷の大きさ、その後の彼の生のゆがみを思って、いささか心が痛んだが、映画の終りにはそのような不幸の存在が感じられない。マリーも子供を生むことを決めて、この映画は終わっている。つまり、母親の実在を立証するのではなく、母親の不在の不確実性を立証したのだ。感傷的なところが微塵もない気持ちの良い映画だが、オィデイプス的に見た場合の、この結末の現実性の判断に迷った。
 たぶん、少年の中での母親像は、マリーと旅を共にする中で変化していったのに違いない。少年の鋭敏な直観は、マリーという多感な少女の中に、女性という存在の本質を、その強さも弱さも美しさも醜さもすべて包摂する形で探りあてていたのに違いない。
 だからいったん少年を置き去りにし、ベルギーへの帰途につきはじめたマリーが思い直して少年のもとに再び帰ってくる。その時に少年はすでに救われており、その時に少年は母親に出会ったのだ。バスを途中で降り、いまいましそうに歩き出し、最後は走るように少年の元に戻るマリーと、とぼとぼとバスの後を追って歩いてきた少年が、夕陽の射す坂道で抱き合うシーンは最も感動的だ。入浴シーンでちらりと見える、マリーのピンと尖った若々しい乳房は超絶的に美しく見えた。それは未熟な青いプラムのように痛々しく、日焼けから焼け残されたように白い乳房は、性的欲望の対象としては幼く、母性の象徴としては一層幼いが、一緒に入浴している少年の視線からその二重の象徴的意味を負わされているために、かくも目くらむほどに美しく見えるのかも知れない。いや、単に理屈抜きに、即物的にも美しい、ということ。
 また、水にぬれて初めて色づくようなマリーの自然な腋毛にも、ベルギー=フランス=ポルトガル的な、性的なナイーブさが感じられた。
 この映画では、登場人物は「当為」ではなく「存在」として描かれている。このような視点から描かれたとき、創造された登場人物がいかにいきいきと動き出すことか。

1993年 フランス マリアン・ハントヴェルカー