怪物たちの舞踏会

 監獄の警吏たる主人公ハンク(ビリー・ボブ・ソーントン)は、その父バック(ピーター・ボイル)に精神的に規制されている。保守的で人種差別的なバックに、家族という逃れがたい檻の中で支配されることによって。ハンクが父から受けた規制はそのまま息子ソニー(ヒース・レジャー)に引き継がれる。三代続いた警吏の家系の父祖たるバックは、その妻から自殺という形で見捨てられたことの呪詛の中で生きている。彼もまたもその妻の自殺というものに規制されているのだが、なぜ妻が自殺を強いられたのかという反省は見事なほど欠落している。かくて人を愛せない息子ハンクと、同じく人を愛せない孫ソニーが出来上がる。ソニーが真夜中に呼んだ娼婦と唐突だが極めて自然に、立ったままで後背位で交わるのは、情愛の欠如の世界に彼が生きるのを強いられていることを示す。彼のかすかな愛情への手探り、即ち「食事でもしない」か、という娼婦への誘いはにべもない拒否に出会う。この娼婦との交情は父親ハンクと共有されている。ハンクもまた情愛の欠如の中に生きている。彼の妻の消息は観客には知らされないが、およその見当はつく。
 ソニーは、死刑執行を受ける囚人に付き添いとして同道する際に、吐いてしまうという失態を犯す。それは電気椅子による刑の執行という蛮行に対する嫌悪の念からのことだが、当然看守として許されることではなく、父親に手ひどい叱責を受ける。ソニーは愛されていない絶望感から、ハンクとバックの目の前で拳銃で自殺してしまう。葬式のとき、ハンクの気持ちはわが子を悼むことよりは一刻も早く彼を地中に生めて視界から抹消してしまうことだった。この非情の世界にいつ転機が訪れたのか。映画で見る限り、その転機が性愛とともに訪れたように見えるのは驚きである。いわゆる精神的な愛が先行していたのだろうか。それとも一夜の衝動的な交情が先行したのだろうか。それが後者であると感じさせられるのは、この映画で話題になった、露骨な性交シーンの描写のためだけではあるまい。しかし、そういうことも十分ありうるのだろう。人種差別という父親の規制から受け継いだもの、先入的な感覚は、例えそれが血肉に食い込んだ身体的なものであろうとも、取り外しが可能なのだ。人を愛せない、という規制も取り外しはもちろん可能である。この場合、父親を施設に放り込んでしまうという代償を払ってのことだが。ヒロインの黒人女性レティシア(ハル・ベリー)を愛することは、実はこの二重の取り外しをいちどきに済ませてしまうことである。
 ハル・ベリーはこの映画で非白人女性として初の主演女優賞を得た。同じ回にデンゼル・ワシントンがシドニー・ポワチエに次いで二人目の主演男優賞を獲っている。
 邦題「チョコレート」

2001年 米 マーク・フォスター