潜水艦

  陰惨な映画。「ドグマ95」なる映画の自然主義運動の産物だから致し方ないにしても、憂鬱な思いで画面を眺めながら、このような悲惨な境遇の人間になぜ付き合う必要があるのか疑問に思った。退屈している人間がしばしば人間の悲惨さに興味をもつということはあるが、このような社会の底辺の人間にソーシャリストとして実践的に関与するならともかく、映画の観客という観照的な行きずりの人間にはせいぜい同情してやるくらいが関の山で、全然生産性というものはない。
 つくづく思うことは、アメリカの前の覇権国イギリスのそのまた前の覇権国たるオランダの、人間の人文化度、あるいは零落振りが堂に入っているということ。タイトルを「潜水艦」にとどめているのがその人文度を表わしているが、そこから、潜水艦はそのうち浮上して明るい水面に出るだろうから、「光のほうへ」という優しいタイトルに変えてしまう日本は、これから本格的に零落していく国であるのは間違いない。
 しかしこの話、同じシーンを兄と弟とそれぞれ別の立場から眺めて見ることに一体どういう意味があるのだろう。ドグマ95の「時間的、地理的な乖離は許されない」(いまここで起こっていることしか描いてはならない)という意味不明な戒律の束縛のためか。

2010年 オランダ トマス・ヴィンターベア
SUBMARINO
邦題 「光のほうへ」