カウボーイ&エイリアン

西部劇になんと異星人が登場する !!
 しかし、よく考えてみればこれは決して荒唐無稽な設定ではない。
 ヨーロッパで食い詰めて移住してきた清教徒たちによって、アメリカの先住民はことごとく殺害された。先住民を追い詰めるために、彼等の食料であり、衣料でもあるバイソンもことごとく死滅させられた。過去のこの自らの蛮行は、アメリカ人の心に今も密かにわだかまる倫理的負い目であるはずである。しかし、自国や自国民について、実際の史実よりかは常に衛生的に記述される歴史というものの効果もあって、この負い目は普段は意識には上らない。先住民の女を強姦して混血の私生児を量産していたという史実は、この映画の中にあるように、先住民の孤児を善意で引き取って育て、息子としての愛情を注ぎさえもした、という美談に改竄されていたりする。百歩譲っても、それは例外的な美談をもって生住民との交渉史を代表させるという欺瞞でしかない。それやこれやで今さら先住民との戦いのシーンなど映画に出来ない。しかし戦いがなければ西部劇にならない。そこに異星人というものが恰好の存在になる。こいつを残虐無比かつ狡猾な存在に仕立て上げて、カウボーイがそれと戦えば良い。先住民と手を結び共に戦う話にも出来る。先住民のスタントにあてる混血の私生児の末裔も要らないし、特撮技術という業界の資産を有効活用することが出来る。かくて、自分達を異星人(実は、かつて清教徒が恐れおののいた蛮人としての先住民が投影されたものに過ぎない)に襲われた被害者とすることによって、アメリカ人の心の負い目を消すことが出来た。負い目どころか、先住民を救済した善人に自分をなぞらえることさえできる。実に念の入った歴史の改竄であるが、さすがにそれでは図々しすぎると思ったのか、冒頭に現れるカウボーイ一行の鞍に、明らかに先住民ものと思われる、剥ぎ取られた血まみれの頭皮をぶら下げさせている。
 ハリソン・フォードが悪役として出てきたので、これはいいと思ったが、終わってみれば、やはり彼は善人に過ぎないことが露呈する。これが、彼が最後まで悪役を全うするような話であれば、幾分かは史実に近い西部劇になっていたかも知れないのに。しかし、これこそが歴史=物語の衛生作用というものであり、人々はそこに何か無根拠の人間の善の可能性を見出す。そして直視するに耐えない人間の蛮行を、人間と人間の将来にとって耐えうるものに変質させる。人間が蛮行と同時に営々とこの衛生作業を続けてきたのでなければ、我々の史実は現に我々が有するこの史実に輪をかけた、さらに凄惨なものになっていただろう。

2011年 米 ジョン・ファヴロー