名もなく貧しく美しく

 この映画が描く、聾唖者夫婦に対する世間の冷たい風、つまり敗戦前後の日本人の民度の低さ、総体的に大衆というものの心根の貧しさが、如実にわがことのように思い知らされる映画だ。それにしても聾唖者に扮するに高峰秀子は可憐に過ぎる。高峰の美貌は聾唖者の苛刻な現実を、実は底上げしてしまっている。これは通例の映画の詐術で、このようなヒューマンドラマを見るときに否応もなく気づかされる表象の限界である。かといって我々はドキュメント映像のみで満たされるわけでもない。
 加山雄三の名を出演者の中に見出し、ずっとその登場を待っていたら、最後の最後に出てきた。秋子(高峰)が助けた戦災孤児のアキラの成長した姿として。これだけつらい映画に付き合ってきた観客への褒美として、彼等の感動の再会シーンが見られると思いきや、実は彼の訪問は仇になってしまう。アキラに逢うために帰宅を急ぐ秋子が交通事故で死んでしまうのだ。息子からの理解と愛も得られ、これから幸せの花が開くという矢先に。この一種小気味よい断絶の効果。実話がベースというのだから劇的効果も何もないが、少なくともこの断絶は、甘いヒューマンドラマに堕することからこの映画を救い、人生の実質に触れたような感覚を味わわせてくれた。
 しかし、これだけ日本が盛名を得、裕福にもなっていても、美しさというものを無名や貧困に結びつける感性がまだ残っているように感じられる。ことが藝術である限りならそれでもいいが、「美しい日本」などと唱える安倍普三という政治家が自民党総裁に選出されたりすると不安になってしまう。アメリカと中国、まさに前門の狼と後門の虎に挟まれて日本は今亡国の危機にあるというのに、安倍のナイーヴさで対抗できるのか。一方野中広務は、頼まれもしないのに中国に行って尖閣国有化を謝罪し、帰ってきては、中国にも金を出させて、尖閣を日中共同領有にしようなどと言っている。気は確かか。「名もなく貧しく美しく」はやめて欲しい。敗戦前後の日本人よりさらに民度が低い中国人につけこまれるだけだ。昔面倒を見た中国は既に忘恩の徒と化しているのに、いまさら中国の中に信義を探しても、それはアキラの幻を見ているだけで、足元をすくわれるのが関の山。

追記、第二次安倍政権は「貧しく」を否定し、「名もなく」も否定して世界にプレゼンスを示した。この二つさえあれば、「美しく」は許容されるが、やはり政治に「美しく」は持ち込んで欲しくない。

1961年 日本 松山善三