永遠の0

 小説のほうはその文章になじめず、早々とこれは映画で代替すべしという結論になって、本を閉じ映画館に行く。
 映画が始まると、かつて戦争というものに日本の青年たちが従事していた、というそのことだけで、目頭が熱くなってきた。まずい、これでは小説をスルーするどころか、映画の感動を噛み締めるために、じっくり読み始めてしまうかもしれない、と危惧した。これでは時間の経済にならないではないか。
 しかし、途中で「愛」という言葉が出てきて、少し引けたので良かった。「祖父は、家族を愛していたのね」。この「愛」という言葉は橋爪功によって、より日本らしい概念に翻訳されはするけれど、そもそも主人公は妻と娘のために、絶対に戦死しないで生きて帰ることを決意している男である。国のためなんかより家族第一。近代以降ならこれは基本的に正しいとされるスタンスだろう。とにかく、何でもいいからこの線でがんばっていれば、戦争に狩りだされることはありませんよ、平和になりますよ。
 この映画を、戦争や零戦や特攻を美化しているとして批判しているらしい石田某や井筒某や宮崎某などのそれとは正反対の批判を私は持った。この映画はむしろ愛をこそ美化している、と。
 愛によって戦争を克服できる、とすることこそ大きな欺瞞だ。
 愛、というものの欺瞞。戦争によって離れ離れになり、その距離が愛という観念の増幅を許す。長く一緒に暮らし鼻突合せていれば、愛というものの虚偽は露出する。家族のため、というその家族とはただ自分のことであるに過ぎない。子供とはまさに自分そのものだ。愛という概念の無効性に気づいた後でも、なお残るものがあるとすればそれは「思いやり」とか「慈しみ」とか「責任」というもの― 橋爪功が言わんとしたもの ―だ。
 何千年も殺し合いを続けてきた世界、その世界で覇権を樹立するような国の指導者は何を考えるか。そろそろ愛というもので平和をこの世にもたらそうか、と考えるとは信じがたい(それをマジで考えたウッドロー・ウィルソンは逆にこの世に大厄災をもたらした)。愛を信じている国の軍隊は弱いことに、むしろ目をつける。愛を信じている人間をうまく使って、邪魔な国に愛の言説を広めよう、と考えるだろう。特に家族愛が良い。家族が一番大切という価値観を徹底させれば、おのずと家族を人質にとったようなものだ。
 この戦略は功を奏して今では誰も国家を言わなくなった。国旗に背を向け、国歌斉唱にも口を噤む。弱体国家の完成だ。しかしこれはまだ第一段階にすぎない。現在、すでに第二段階に突入している。夫婦別姓、嫡子・庶子の区別の廃止―すなわち家族の解体である。これは家族とは結局自分のことだということを反対側から露出させることなのだが、家族を解体して初めて、国家や家族やという、そのために命を捨てるものがなくなり、自己愛に浸る国民だらけの弱体国家が完成する。これらの国家・家族不要論者をあとは刈り取るだけでよい。
 
 
 愛が瀰漫する偽善社会も住みにくいが、しかし、愛の幻想のない世界も索漠として耐えがたい。
 そもそも平和という退屈に人間は我慢できない。
 いっそ近代から前近代に帰って、エロスというものに身を委ねようか。宗教的な法悦、バタイユ = 三島由紀夫な陶酔、国家という己を超える全的なものとの同一化によって得られる悦楽を求めるべきか。このような悦楽はこの映画の外である。
 岡田准一扮する宮部久蔵の顔に最後に浮かんだ笑みはこの悦楽を意味するものではない。それは妻との約束を果たしえたというだけの、その限りでの笑みである。しかし最終的には10 % 程度だったという成功率の、その敵艦に達した成功機のパイロットの顔に、このバタイユ的陶酔が浮かんだこともあったろうと思う。
 尚、宮部の、乱戦中は戦線を離脱して上空にとどまる、というのは敵前逃亡に等しい行為で、それは自らの命を助けることで、味方を危険に陥れる行為である。彼のどのような人道性を持っても正当化できる行為ではない。仲間たちが呆れこそすれ、この点を真剣に糾弾せず、上官も知って知らぬフリというのは不自然である。
 山本學夏八木勲などのベテランの存在感もいいが、新しい世代の俳優たちが、それぞれにいい顔をしているのも良かった。特撮も映像全般も、「亡国のイージス」(2005.7)に比べたら数段良くなっている。「亡国のイージス」は、日本の戦争映画を当分見る気にさせなくする出来で、そのため「男たちの大和/YAMATO」(2005.12)はパスしていた。
 エンドロールで流れる主題歌もまだサザンだったので救われた。ここでセンチなフォーク系の歌を歌われたら敵わないので、早々に席を立つつもりでいたが、無事最後まで聞けた。桑田圭祐はかなりこの映画に入れ込んでいるらしいが、英霊たちが彼の歌を聞いたら、戦争に負けたので日本語まで英語っぽくなっちゃったよ、と自嘲するかも知れない。