アフリカの女王

 この映画は、ハンフリー・ボガートがアカデミー主演男優賞を取って話題になったためか、昔テレビで何回か放映されたが、その度に面白いようなつまらないような感じで見ていた。あまりなじみのない異国の話であるだけに面白いことは面白いが、ヒーローは汚れ役のボガート、ヒロインは年増のキャサリン・ヘップバーンということもあって、こちらを夢中にさせるほどの映画の魅力があるわけではなかった。
 そのヘプバーンの書いた「アフリカの女王と私」を読んでみると、「ホワイトハンター、ブラックハート」より、ヒューストンのことをよほど好意的に見ている。ヒューストンとヘプバーンとはいえ、ふたりの間に男女間の宥和の感情が働き、ヒューストンの嫌な性格は大幅に割り引かれたのだろう。それとも、何度も撮影現場という修羅場を踏んでいるヘプバーンにとってはヒューストンの奇行など物の数ではなかったのかも知れない。
 改めて思うに、交戦中のドイツの砲艦を手製の魚雷で沈めるロージーとチャーリーの行為は、ロージーにとっては兄の敵討ちであると言っても、「ハーグ陸戦条約」に反するゲリラ行為ではないか。話は第一次大戦だが、敵国ドイツは第二次大戦のナチスのイメージが照射されており、つまり悪鬼とされているわけだが、だからと言って何でも許されるわけではないだろう。しかし、この不意打ちは無条件で英雄的行為と見做され賛美されている。その行為は最悪の場合、報復として民間人を含めた殲滅戦を呼び込むことを考えると、兄の敵討ちが出来てよかったねとも言っていられない。
 たとえば昨年物故したピーター・オトゥールが出ていた「マーフィーの戦い」(1971)は、第二次大戦末期、ドイツのUボートに襲撃された商船の生き残り整備兵が、たった一人でUボートに報復する話だが、こちらはちゃんと軍籍の男の話なので、一応正当な戦闘行為だろうが、「アフリカの女王」は違う。
 第二次大戦では、連合国は無差別爆撃などをしてれっきとした国際法違反を犯しているのだが、勝者というものは勝手な映画を作るものだ。

1951年 英・米 ジョン・ヒューストン