ロストワールド/ジュラシック・パーク

 いったいどんな要素がこの映画を、かくもつまらないものにしているのか、驚きあきれつつそんなことでも考えてみるしかないようなひどい出来の悪さだ。その点はさておいて、この映画における「悪役」インゲン社はいったい何を象徴しているのか。神をも恐れぬ遺伝子操作により、絶滅した恐竜を再生させ、それを学術研究に使うわけではさらさらなく、単に営利の手段にするだけ、という資本主義的な営利探求運動の意志の象徴としてのインゲン社。こちらはその少数のリーダーと巨大な組織自体が前面に出される。片やこれら恐竜を「自然」のままに放置し彼らだけの生活環境を提供しようとする市民的な善意。もっともこの善意の蔭には、恐竜を制御不能なものとみなす恐怖がある。こちらは、リーダーがいるわけではなく、もちろん組織があるわけではなく、それぞれが個性的な(つまりある意味で厄介な)人間たちのチームであり、極力一人一人の個性的な人間性が表面に出される。復活した数学者イアン・マルカムとその養女、偏屈な恋人、フォトジャーナリストなどなど。つまりこちらにいるのはあくまでも人間で、神や自然を畏怖する感情を持っている存在である。対するは巨大組織だ。人間の顔が表面に出てこない、極めて営利的かつ軍事的な巨大組織だ。となると、この「悪役」が当然その傲岸さの報いとして、滅びるのである。最初は憎たらしく、次第にみっともなく、最後にはみすぼらしく。ここにあるのは相変わらずのお手軽なパターンの踏襲であり、資本主義的な悪との記号レベルでの戯れでしかない。そのようなパターンに服従されてしまう、興行としての映画製作の宿命の方に、実質的な資本主義の悪は存在するというのに、監督も俳優も、総ての関係者がこの力学に屈服してしまうのだ。
 これは一面では鑑賞者たる観客の側の傲岸さの表れでもある。第一作であれほど賛嘆された素晴らしいCG技術も、わずかに一作しか持たない。本物そっくりに、多分本物以上にアクション俳優振りを見せてくれる恐竜たちのCG画像に、観客たちはもはや少しも感動していないかのようである。T-レックスの重厚にして繊細なその動き、表情、ヴェロキラプトルの、動きのレベルでのおぞましさ、憎らしさ、これらのことが本作でも、おそらく長大な計算と膨大なプログラミングの果てに実現されているにも係わらず、観客の目にはむしろ、崖から墜落する車のシーンに、快楽の消費者に取って許しがたいものを見いだしてしまうのだ。それは常道的なもの、既に消費されたものの反復というものである。

1997年 米 スティーヴン・スピルバーグ