華麗なるギャツビー

 最後まで見ると、女性への夢に殉じて死んでいくギャツビーをグレートと形容する悲痛さが胸に迫ってくる。相手の女性がそれほど内実のない軽薄なデイジーであるから尚のこと。どうして翻訳小説から輸入映画まで、グレートを「華麗な」にしてしまうのだろう。これではとにかくハデなパーティーシーンだけ見れば十分な話と思われてしまうではないか。とは言え、最新のこの映画では売りはVFXまで使われたパーティーシーンのドハデさ加減である。
 アメリカ人がこよなく愛する原作小説は、小説の原題Great Gatsbyをそのままタイトルにして、何度も映画化されているが、輸入されたそれの邦題はもっとひどく、一番初めの、1926年の映画の邦題は「或る男の一生」、1949年のそれは「暗黒街の巨頭」である。小説の翻訳はそれから遅れて1957年、このとき初めて「華麗なるギャツビー」とされた。野崎孝のこの訳本はその後改訳されたときに、「グレート・ギャツビー」、そして「偉大なギャツビー」と原題に忠実なものに改められている。同年には「夢淡き青春 グレート・ギャツビー」という別の訳本も出ている。
 1974年にロバート・レッドフォード主演の映画が「華麗なるギャツビー」として公開され、映画に当て込んだのかこのとき訳本がいくつか出され、いずれも「華麗なる」となっているのは、映画が先か小説が先の話なのかよく分からない。このとき、野崎の本でさえカバーだけ「華麗なる」に取り替えられたという。とにかくレッドフォードの映画で「華麗なる」が定着してしまった。近年、満を持して村上春樹が翻訳し、タイトルを「グレート・ギャツビー」にしてくれたのに、またまたこの映画で「華麗なる」に逆戻りか。山崎豊子華麗なる一族」(1973年)を思えば、大恐慌前のアメリカと高度成長時代の日本とは、「華麗なる」に親性があるのは確かなことだが、デフレ脱却期の今、「華麗」を持ち出すことが凶とでるか吉と出るか。
 見る前は果たしてキャリー・マリガンファム・ファタール役が務まるのか心配していたが、見てみれば十分可愛く、悪女の条件は満たしている。しかしその心配はキャリー・マリガンとミシェル・ウィリアムスとを混同していたことによっていた。いくらモンローに扮したことがあるウィリアムスとは言え、すこし調子に乗りすぎではないか、しかも相手はレオ様だぞ。観劇中は最後までこの混同に気づかず、見終わった後、調べてみてようやく分かった。この二人、似ているよね。そしたらウィリアムスもちゃんとデイジー役の候補に上がっていたらしい。その他、アマンダ・セイフライドスカーレット・ヨハンソンキーラ・ナイトレイナタリー・ポートマンなども候補とされていた。
 確かに、パーティーシーンの「華麗」さは一見の価値がある。しかしこのパーティーは、アドレセンス喪失小説の源流、「モーヌの大将」(le Grand Meaulnes / Great Meaulnes ! ! )の森の中の不思議な夢幻のパーティーの再現なのだから、密かに胸を傷めつつそれを見るのが正しい鑑賞法である。
 そうか、「ギャツビーの大将」と訳す手も、・・・ないか。

2013年 米 バズ・ラーマン