華麗なるギャツビー 1974年版

 ディカプリオ版では、女性への夢に殉死するギャツビーにそれなりに感動したが、こちらのレドフォード版を見てから思い返すと、その感動にはやはりディカプリオの「ガキ顔」が貢献していたと思い当たる。一方のレドフォードは今から見ると驚異的に若い頃に撮られた映画だが、ちゃんと青年の顔になっている。むしろ分別のある大人の顔なのだ。そうすると、もう女性への幻想でもあるまいと思ってしまう。しきりに自己弁解だけを繰り返すデイジーを見たら、もうそこで、いい加減夢から覚めたら、と言いたくなるのだ。目を覚ませ、ギャツビー !  ギャツビーの「偉大なる」由縁は、その希望を見出す才能にあるとされるが、希望を女性に見出そうとするのは、いかにももったいないと思う。しかし70年代の観客はまだそういうギャツビーに十分感情移入できたのだろう。ディカプリオのパーティーは非現実的なほど華麗なので、「モーヌの大将」の夢幻のパーティーに重ね合わせることが出来るが、レドフォードのパーティーは華麗ではあるが、一応現実的なそれの範囲内なので、ここからモーヌを想起することは難しい。2010年代の観客にはCGの駆使によってもたらされる幻惑こそが必要だったのだ。
 結局、原作小説を読まなければ、なぜこの話がアメリカ人に愛され続けているのか、正確には分からないのだろう。

1974年 米 ジャック・クレイトン