渇き。

 1999年の「シュリ」以降、韓流ブームに乗って韓国映画がどっと入ってきた。最初の頃は、感覚的に斬新な映画もあり、何作か見ていたが、次第にそのエグさに閉口し、敬遠するようになった。韓国の反日大統領の行動が目にあまるようになってからは、完全にシャットアウト。韓国映画、というだけで自動的に鑑賞の対象外になる。別にそれで損をしたということはないし、逆に映画選択の効率性が高まった。
 この映画は、そのエグさ加減で、そのころの韓国映画を思いださせた。10年遅れて韓国映画のマネをしてどこが面白いのだろう。途中で映画館を抜け出したくなったが、観客が三組しかおらず、なんとなく退館が遠慮されて、ブツブツ文句を言い、時折失笑しつつ、最後まで見、ようやくエンド・クレジットが出たところで脱兎の勢いで外に出る。
 原作はコノミス大賞だかを得た小説らしいが、脳内妄想的空想力は、ケータイ小説の流れを汲むものらしい。とにかく文字変換入力のスムーズさによって、日本語の文章が即時的に無抵抗に形成されるようになったが、おかげで小説は単発的断片的痙攣的な言語の席巻するところとなった。それでも日本人が今やこのような物語を享楽できるようになったというなら、その野蛮なたくましさを賞賛せぬでもないが、しかしその享楽の根底に、イジメを受け、少女に恋し、やがて殺されていくか弱い少年のナイーヴさが透けて見えてしまう。宮崎駿がさかんに撒き散らしている少女幻想というものからいい加減覚めようとするのはいいとして、そのときいきなりモンスターとしての少女に行ってしまうところに、どうしても日本人の未熟さを感じてしまうのだ。とにかく、この血みどろの世界は、裏側で宮崎ワールドのお花畑につながっているのは間違いない。
 破滅型の元刑事役所広司と笑う刑事妻夫木聡をそれぞれ端点とする線分のどこかに、現実にこの世界に生きている人間は位置しているが、単発的断片的痙攣的言語を以ってしては、それはよく捉え得ないのだろう。

2014年 中島哲也