デュー・デイト

 「デュー・デイト」(この後、出産まであと5日ウンタラカンタラという長い説明的な副題がつく)、これは実にくだらない映画で、残り10分くらいのところまで我慢していたが、ついに堪らず早送り。爆笑ロードムービーとか言っているが、確かに開巻4、5分のところでは私も笑ったが、変人たる相方が出ずっぱりになると、そのヘンの度合いが尋常でなくだんだん不快になってきた。それでもこの男に寛容を示す、ロバート・ダウニー・ジュニアに感心したりさえしたのだが、男の変人ぶりはあまりにも常軌を逸しており、決定的なことに魅力というものがこれっぽっちもない(ザック・ガリフィアナキス)。それでも最後にはこの男と意気投合するらしいのだが、全く共感できない。ジュリエット・ルイスがまたもや変な女の役で嬉しそうに出ているし。映画を見ている自分が、ただ時間を無駄にしているだけの途轍もない馬鹿だと思わせる映画。この監督とのコンビの前作(ハングオーバー)はコメディーとして史上最高の興行収入を上げたらしいが、本当かい ?

2010年 米 トッド・フィリップス

砲艦サンパブロ

 初見の時はキャンディス・バーゲンの美貌が眩しく、水兵姿のスティーヴ・マクィーンの無駄のないたくましさに惹かれもした。しかしその映像美に心ゆくまで堪能できなかったそのわけは、東洋人代表として「マコ」が出ていたからだ。恰も鏡を見るように彼の顔を見せられていては、洋画の中の西洋人の雄偉な姿にうまく幻惑されなかった。「マコ」は日本人ではなく中国人という設定だが、いかにも原アジア人という顔である。彼のみならず他のアジア人俳優たちもみな黄疸がでているような不景気な顔色になっている。今ならもっとマシな東洋人俳優がいるし、西洋人が美しく、東洋人がそうでないような露骨なカラーリングでは映画はそうそう作られない。リチャード・アッテンボローの恋人役に扮したマラヤット・アドリアンヌという女優も、役柄上もう少しきれいに撮ればいいのに、血色が悪いのは同断である。アドリアンヌは「エマニュエル」を書いた作家エマニュエル・アルサンでもあるのだから、もう少し妖艶に見せてくれても良さそうなものだ。とにかくこの映画では女性の美はキャンディスに独占されており、彼女の教師らしいつつましい服に隠された肉体がこの映画の秘められた動因である。キリスト教徒として肉体を放棄しているはずの彼女のその、深く秘匿された肉体が、マクィーンから隔てられ、遠く野蛮の地、中国奥地に遠ざかっていく。それを追いかけていき、そして到達しないまま客死するところに清冽なロマンがある。
 それにしても中国の政治的プロパガンダの巧みさの、その一端がこの映画からも伺える。それは、頻繁な王朝の交替があり、列強の蹂躙を受けもした孔孟の民が、第二の天性のように身につけたものなのだろう。

1966年 アメリカ ロバート・ワイズ

ハノーバー・ストリート 哀愁の街角

 見る気もあまりないが、たまたまた録画しておいた映画で、ほかに見るものがない日、仕方なくこれを見た。
 ただの不義蜜通の話を恋愛モノにして、交情の場面ではひたすら天上的な音楽が流される、という見るに耐え難い映画。ただイギリスのスパイの話が絡ませてあるので、どうなるかと最後まで見てしまったが、こちらもただアチャラカな話だった。演歌の世界なら「愛しても愛してもああひとの妻」とその恋情には共感できもしようが、そもそもバスを待つ列の割り込み合戦から出会うというドライな欧米人に対して「もののあはれ」の感情なと湧きようはずもなかった。若い男女が互いの体を貪りあうという話なので、それならそれで「郵便配達は二度ベルを鳴らす」のようにロコツにしてくれれば、こちらも欺瞞、偽善に身もだえすることなく、見れるというものだが。爆撃機の操縦士が週一回の休みをしっかり取りつつ、まるで会社に出勤するように爆撃に出かける、という余裕に、戦争に負けたほうの当方としては、ひたすら悔しい思いがし、フランスのレジスタンスとそのシンパに助けられたくせに、いざ自分が危うくなると、そのシンパの納屋に火を放って逃げてしまうというのも、見ていて呆れる思いがした。あまりにつまらないので、若いハリソン・フォードの、せっかくの稜線鋭い美貌を堪能することもできず。

1979年 ピーター・ハイアムズ

飢餓海峡

 原作は水上勉の傑作小説なので当然見たいと思うが、主演が三國連太郎なので、彼のアクの強い演技が好きになれない自分はすこし躊躇した。しかし、伴淳三郎の刑事は多分一見の価値があるだろうと思い、結局見ることにした。
 見れば悲劇の女性八重を演ずる左幸子はまだ若くてチャーミングだし、後半若い高倉健も出てくるし、堂々三時間の力作である。内田吐夢の迫力ある動的撮影法がなかなか見せる。最後に警察の大失態と言うしかない事件が起きる。原作ではどうなっていたっけ、と本を引っ張り出して確認したら、ほぼ映画と同じだった。主人公の悲劇性を完成させるための筋書きとは言え、観劇を通して、主人公よりもかなり警察の方に感情移入しているから、警察の大失態で終わるというのはむしろ残念な気がした。これも主人公を演じたのが嫌いな役者のためか。
 伴淳は期待通りだった。彼が時折、長渕剛によく似た表情を見せるのは一興。
 モノクロ画面で、昭和の貧困の詩に触れる、というは懐かしくも嬉しい観劇体験である。

1965年 内田吐夢

ロシアより愛をこめて

 007映画の傑作とされるこの映画、主題歌も好きだし、イスタンブールやベニスなど魅惑的な街が出てくるので、時々眺めたくなる映画だ。
 今回眺めてみたら、ボンドが窮地を切り抜けるシーンは、相手が撃つ前にいろいろ不要な時間をかけてくれたので幸運にも助かっているにすぎない、ということに気づいた。この映画ではそれが二回もある。そう思ってみると、他のシリーズでも事情は似たようなものなので、相手が問答無用で撃ってくれば恐らくボンドはとっくに百回ぐらいは死んでいただろうと思った。逆にボンドが勝利する場面は、例外なくこちらが能書き言わずにさっさと殺してしまう形になっている。これは必ずしも作劇上のご都合主義ではなく、思わず語りかけたくなる、話を聞いて欲しくなるほどの、人間的魅力をボンドが持っているという事によっているのだろう。ウンチクのレベルでもいいから、教養というものを身につけることは、長生きの秘訣でもあるという教訓を007から引き出してもいいが、それはおそらく現実の世界では通用しない教訓だ。

オーストラリア

 なぜか見る前から嫌な予感がして、見るのを避けていた映画。男優・女優ともそれほど好きではないし。男優は最近ただの筋肉標本のようになってしまって色気がないし、女優も昔は絶世の美女の一人と思っていたのに、最近はヘンな顔に見えて仕方がない人。
 町山智浩氏がこの映画の悪い点を指摘しており、それを聞いてやはり見なくて正解、と思った。
 その悪い点とは歴史の偽造。なんと先の大戦中、日本軍がオーストラリアに侵略し ( ! )、さらにアボリジニを殺害した、としている。アボリジニを殺戮したのはオメーラだろ、と町山氏はツッコミを入れるが、この「おめーらだろ」とツッコミを入れたくなる事象は山ほどある。

共通点は自ら行なった残虐行為を、他者が行ったこととし、さらに自らを被害者に擬する精神病理学的作為。あるいは厚顔きわまる政治的策謀。

三光作戦」 →それはおめーらの指導者毛沢東が自国の農民にしたことだろ !!
 「南京大虐殺」→それはおめーらが通州で日本人にしたことだろ !!
従軍慰安婦」→それはおめーらが米軍相手にした「第五種補給品」のことだろ !!

 また8月15日近くなると、反日活動家がうごめきだすが、去年の夏にぶつけられた「終戦のエンペラー」は、録画したまままだ見ていない。早く見終えてケチョンケチョンにしてやりたいが、それも憂鬱で見る気になれずにいる。「オーストラリア」はアチャラカ大活劇だから、そこで歴史の偽造をされても冗談で済ませられるが、「終戦のエンペラー」は史実に忠実にという体裁をとって、そこにウソを混ぜるからタチが悪い、と町山氏は言う。
 「終戦のエンペラー」と言えば、ハリウッド版「ゴジラ」の予告編で、デビッド・ストラザーンより背が高い渡辺謙を見たとき、終戦直後、マッカーサー昭和天皇が並んで撮影された写真から受けた日本人の衝撃が、すこし癒されような気がした。

渇き。

 1999年の「シュリ」以降、韓流ブームに乗って韓国映画がどっと入ってきた。最初の頃は、感覚的に斬新な映画もあり、何作か見ていたが、次第にそのエグさに閉口し、敬遠するようになった。韓国の反日大統領の行動が目にあまるようになってからは、完全にシャットアウト。韓国映画、というだけで自動的に鑑賞の対象外になる。別にそれで損をしたということはないし、逆に映画選択の効率性が高まった。
 この映画は、そのエグさ加減で、そのころの韓国映画を思いださせた。10年遅れて韓国映画のマネをしてどこが面白いのだろう。途中で映画館を抜け出したくなったが、観客が三組しかおらず、なんとなく退館が遠慮されて、ブツブツ文句を言い、時折失笑しつつ、最後まで見、ようやくエンド・クレジットが出たところで脱兎の勢いで外に出る。
 原作はコノミス大賞だかを得た小説らしいが、脳内妄想的空想力は、ケータイ小説の流れを汲むものらしい。とにかく文字変換入力のスムーズさによって、日本語の文章が即時的に無抵抗に形成されるようになったが、おかげで小説は単発的断片的痙攣的な言語の席巻するところとなった。それでも日本人が今やこのような物語を享楽できるようになったというなら、その野蛮なたくましさを賞賛せぬでもないが、しかしその享楽の根底に、イジメを受け、少女に恋し、やがて殺されていくか弱い少年のナイーヴさが透けて見えてしまう。宮崎駿がさかんに撒き散らしている少女幻想というものからいい加減覚めようとするのはいいとして、そのときいきなりモンスターとしての少女に行ってしまうところに、どうしても日本人の未熟さを感じてしまうのだ。とにかく、この血みどろの世界は、裏側で宮崎ワールドのお花畑につながっているのは間違いない。
 破滅型の元刑事役所広司と笑う刑事妻夫木聡をそれぞれ端点とする線分のどこかに、現実にこの世界に生きている人間は位置しているが、単発的断片的痙攣的言語を以ってしては、それはよく捉え得ないのだろう。

2014年 中島哲也