スタンド・バイ・ミー

 スティーブン・キングの短編「死体」を原作とする映画。キングの小説は概して読みやすい。これは訳者に恵まれた結果なのか、原文自体が読みやすいものなのか私には分らない。読みやすいが文章の質は決して軽くない。一定の重量を持つ内実を有する文章ではある。しかし、そういう原作と映画とを比較してみた場合どうだろう。「ミザリー」と<ショーシャンクの空に>の原作「刑務所のリタ・ヘイワース」くらいしか読んでいないのに断言するのはなんだが、彼の小説は映画によって代替可能なものである。そして映画のほうが面白い( ! )。例えばSFXを駆使し、高額の投資によって制作された「ジュラシック・パーク」がそれなりに面白いものであっても、原作のほうが映画よりはるかに面白いということと対照的だ。このことは何を意味しているのか。多分キング本人があっさり認めているとおり、それが文学かどうかの違いということなのだろう。この小説はこのホラー作家に青春小説の傑作の著者という名誉まで与えているようだが、小説だけだったらこの栄誉は授けられなかったろう(「死体」というタイトルの小説が青春小説の傑作、だなんて)。その栄誉にはこの映画が貢献するところ大なのである。映画は原作にほぼ忠実に作ってある。しかし忠実でないところが一部あり、皮肉にもそのところがこの小説=映画を傑作たらしめていると私には思える。それは、轢死した少年の無惨な死体を発見したとき、ゴーディが兄の死を重ね合わせて「なぜ、死んだんだ」と泣き出すシーンだ。両親の偏愛を受けた兄と、省みられなかったその弟という構図が改めてくっきりと浮かび上がって、そこに作家誕生の瞬間をすら見るような気がする場面なのだ。しかし、原作にはこの場面はない。兄が偏愛を受けるくだりもさらりと書いてあるだけだ。作者はむしろ、冒険を終えたあと少年たちがそれぞれの兄に無惨にリンチされる場面を、舌なめずりして書き込むのである。この辺の描写にキングの資質は存在するのだろうが、映画では賢明にも省略されている。<ショーシャンク」でも、映画全体の感動を高めているのは、当初、希望など塀の中にいる人間には危険なものだ、とデュフレーンに諭していたレッドが最後には希望する人間に変貌していくくだりにあった。これも原作には見当たらない。原作に隠されたこの文脈を見つけたのはシナリオライターの功績である。ゆえに映画のほうが遥かに味わい深く面白いのだ。傑作とされる<シャイニング>は、映画を見た限り全然恐怖を感じなかった。もしかしたら原作にはその恐怖が書き込まれているのかも知れないと思いながら、どうしても読む気になれないのは、多分この小説も映画を凌駕するものではないだろうということが予見されるからである。

1986年 米 ロブ・ライナー監督