ミスティック・リバー

 第二の「スタンド・バイ・ミー」、とかなんとかいうキャッチは誰がつけたのか。件の映画とこの映画とは何の共通点もない。それどころか少年時代の「友情」というものの扱いでは、ほとんど正反対である。それに涙が何とかかんとか、とポスターに書いてあったが、この映画を見ていったいどこで泣け、というのか。まったく勘違いもはなはだしい。意図的に日本人のじめじめした心性につけこんだ宣伝文句なのだろう。
 この映画のテーマを、人それぞれが受け取る現実は真実ではないということだとして、結末に共感できない人間を揶揄するような見解もあるが、現実と真実との相違などという「羅生門」の如き陳腐なテーマを、イーストウッドがいまさら取り上げるだろうか。この映画の要点でもあり、多分多くの日本人が違和感を感ずる点でもあるのは、旧知のデイブ(ティム・ロビンス)を娘殺しの犯人と誤って殺してしまうジェミー(ショーン・ペン)が、しかしその後もつぶれない、とうことなのだ。これは一定の世代以上の日本人の心性とはまったく相容れないものだろう。「これでいいのか」と思って当然である。
 確かに人それぞれが生きざるを得ない現実というものは真実から疎外されてある。しかし観照的に何も行動せずにいるのでなければ、人はそれぞれの現実の中で生きるしかない。そして人は自分の娘を殺されたとき、観照的であることはできないだろう。報復という行動に出るだろう。問題はその先である。その行動が過ちであったと後に判明したとき、そこでつぶれるかどうかだ。日本人/西洋人という単純な二分法をしばらく使用するが、西洋人はこの辺の経験には年季が入っている。共感を拒まれるということはそこで西洋人の精神の中核にぶち当たっているということなのだ。そこから無常観に分岐する日本人と、神のしろしめす元での自己肯定に分岐する西洋人と。日本人の感情移入が拒否されて当然である。幼時に性的虐待を受けて精神が壊れたデイブ、運悪く犯人に間違えられ、妻から密告されたまも同然にして殺されたデイブは徹底的に弱者として描かれる。岸田秀は「日本人は黒船来航と太平洋戦争の敗北とで二回アメリカに強姦された」としたが、そうであればこの弱者ディブの姿はあたかも日本人のそれの様にも思えてくる。一方、光ある西洋の人は、また同じことがあれば同じことをすると堂々と宣言するかのようである。
 警察官ショーン(ケビン・ベーコン)の妻との関係修復が、もうひとつの話として展開するが、最後にめでたく修復がなっても、荒涼とした人間関係そのものが修復されたわけではない。性と暴力をめぐる人間関係の底なしの暗黒が日常のすぐ傍らにあるとき、このエピソードが何らかのカタルシス効果をもたらすとは思えず、デイブがただ弱者であり、負け犬であったことを際だたせるだけである。

2003年 アメリカ クリント・イーストウッド監督