美しき運命の傷痕

 「地獄」という原題に、かくも凝った邦題が与えられた。この映画の制作に関与した日本の当然の権利の行使であるかのように。しかし、見終わってみると原題がいかにもふさわしい映画で、「美」も「運命」も「傷痕」もただの日本人好みの、修飾的な空疎な言葉に過ぎないということが分る。第一、愛というものが不可解な意味不明なものに思えてくるのだ。意味は分からなくとも愛という言葉は使える。言葉は模倣だからだ。愛とはまるで違うものさえ愛の名前で呼んでしまうのかも知れない。例えば大学生アンヌとその教授フレデリクとの恋。アンヌ(マリー・ジラン)は、観客の私には未知の女性として現われ、その体に触れえぬ私からは欲望の対象となる。彼女の映像に対して生ずる私の情動を恋とも愛とも呼ぶことが出来る。しかしそのアンヌから迫られている教授から見れば彼女はすでに消費済みの嗜好品にしか過ぎず、いまわしい呪詛の対象となるだけである。
 それぞれの「愛恋」問題に悩む三姉妹の父親は、昔生徒との同性愛の嫌疑をかけられ、母親に追い詰められて自殺同然の事故死をしている。そのことが姉妹の恋愛観に暗い影を落しているのらしいが、ひょんなことで、それが誤解であったことが分る。しかし、今は身体が不自由になり、娘に面倒を見てもらっている母親は、昂然と「私は後悔していない」と言い放つ。これはどういうことなのか。日本人には分らない神との契約レベルの話なのだろうか。「ミスティック・リバー」で誤解から友人を殺したショーン・ペンも後悔しない。この態度は、少なくとも私には理解不能だ。この母親の心事に共感し理解する日本人がどこかにいたら教えて欲しい。共同制作のこの映画の、日本人プロデューサー定井勇次氏はどのようにこの話を受け止めているのか、聞いてみたいものだ。私には、このような審美的な邦題を考え出す日本人、アニミスムだけ信仰している暢気な日本人は、これらキリスト教徒にそのうち「何の後悔もなく」破滅させられてしまうのだろうと思える。「神曲」の地獄編を読んだだけで西洋というものを理解したつもりでいるわけにはいかないようだ。

L’Enfer 2005年 仏・伊・白・日 ダニス・タノヴィチ