シンドラーのリスト

 思ったとおり、この映画を見終わってもうまく感動できなかった。ラスト近くで「もっと救うことができた」と泣き崩れるシンドラーと、商売のためにドイツ兵の歓心を買うことに専念し、一方で複数の女たちとよろしくやっているシンドラーと、どちらが「本当の」シンドラーなのかという馬鹿なことを考えていたためだ。そもそも是非にでも見たい映画ではなかった。強制収容所を描いた映画にどう向き合えばいいのか。映画に享楽しか求めない私はそんな憂鬱な映画は見たくなかった。この映画からあるいは人生の教訓を引き出すべきなのか。私が持っている教訓は、人間とはこの世のものならぬ天上的な善意とこの世のものならぬ堕地獄的な悪意との間に、「確率的に浮遊しながら、偶然的に固定する」存在であり、そのことを忘れてはならないということなのだ。それ以上の教訓をこの映画から引き出せはしない。人間の悪は依然私にとって不可思議な謎として残っている。「なぜ、このことが可能だったのか」、このことをまだうまく了解できずにいるのだ。その謎を解いてくれる映画でもない。収容所長のSS将校に扮したレイフ・ファインズのだらしなく弛んだ腹に、絶対的なものとして固定した悪の匂いをかすかに嗅ぐことができた気がするだけだ。
 多分、これは様々な興行的な娯楽映画を量産してきたスビルバーグの罪滅ぼしのような映画なのだろう。そしてその過程でスピルバーグは、この映画を作るために映画監督になったという、心理的逆転劇を演じているかのようでもある。資本主義的な映画製造過程でのなかで卑俗化してしまった自分の芸術的な高貴なものを取り戻そうとした動機の一部を、最初からその高貴なものは失くしていなかったと読み替えたのだ。
 シンドラーの「善行」には、伝説化された部分が多いと指摘する向きもある。この点、2,500人ものユダヤ人児童を救済し、ノーベル平和賞の候補にもなった、イレーヌ・「センドラー」などとは違うようだ。スピルバーグはなぜこちらの方を映画化しなかったのだろう。最初は金儲けしか頭になかったが、次第に回心していく男の姿に、わが身を重ねたとするのは深読みが過ぎるだろうか。

1993年 アメリカ S.スピルバーグ監督