アウトブレイク/エピデミック

 アウトブレイク」(O)は、人倫の破壊につながる盲目的な軍事意志と、その意志に反抗する人間の良心との対決という図式によって作成された娯楽映画である。
 「エピデミック」(E)にはそのような透視できる内部構造が見出せない。細菌によって破壊された生体組織から出てくる汚れた漿液のようにただ流れ崩れていく非構造的な映画である。
Oに描かれる、ウィルス/細菌に冒された人間は、娯楽映画の衛生学の範囲内で、顔や形が変形し、皮膚が変色し、体から血を流す。その患者の状態の不気味さに嘔吐するのは映画の中の人物であって、観客ではない。観客は疾病というものの実相から遮断され、その感覚は保護されている。
 Eはそうではない。細菌の感染により膿んで膨れた皮膚に突きたてられたフォークが直接的に観客の官能を攻撃してくる。
 Oでは、ダステイン・ホフマン扮する軍医が、私生活では結婚生活に破綻した人間として描かれ、その「人間的」な面で獲得した観客の共感と同情が、彼が正義の体現者であることの受け入れの抵抗を減じている。上司に楯突き、組織の秩序を乱す行為をとるような、非妥協的な正義漢を提示するためには、それは必要な手続きである。完璧な人間としての正義はむしろ上官ドナルド・サザーランドのほうにあるが、彼はその人間性の欠落(不完全さの欠落)のゆえに、「悪」としてこの映画では糾弾される。両者の中間地点にモーガン・フリーマンの苦渋に満ちた表情が配置される。
 Eには、そのような類型的に人間を描き分けるという動機がそもそも存在しない。催眠術にかけられた女性がまざまざと疫病の実相を幻視し、叫び出す迫真のシーンは、そもそも現実と幻想の境界が不分明なように、人間の正邪を分ける「人格」というものの存在にすら疑問符を付しているように思われる。
 Oを見た後では、米軍の細菌兵器と蒸発爆弾が実はわれわれの頭上にぶら下がっているという圧迫感は速やかに忘失され、むしろ人間の良識に触れたという安心感を感じて、感動すらするのだろう。それは、ほとんど目に見えない巧妙な教育のようなものだ。
 Eはそうではない。タンホイザーの暗く悲壮な旋律が、感動などという安直なカタルシスの代りに、観客の脳髄の中に巣食いだすのだ。
 それは、「ネバー・エンディング・ストーリー」というファンタジー、「ザ・シークレット・サービス」「エア・フォースワン」という米国肯定の映画を量産してきた監督と、「ドッグヴィル」「ダンサー・インザ・ダーク」の監督との違いである。

アウトブレイク  1995年 米 ウォルフガング・ペーターゼン
エピデミック 1987年 デンマーク ラース・フォン・トリアー