男の出発

 「出発」は「たびだち」と読ませる。往年のフォークソングなどで愛用された、なんとなく恥ずかしくなるような語法だ。衛星放送で録画したものを見たのだが、録画しながら最後のほうだけちらと見たら、西部劇としてはパンチのない映画のように思えた。それでまともに最初から見なおすまで大分時間がかかった。しかし見てみると実にリアルな西部劇であり、見せる映画である。クリント・イーストウッドが、昔散々マカロニ・ウェスタンに出演した時の負債を払うかのように「許されざる者」(1992)を撮ったとき、全くリアルな新しい西部劇が提示されたのだが、この映画のリアルさはイーストウッド以上のものがある。開拓時代の生活はかくもあろうと納得させるに足るシブい作りの映画だ。カウボーイたちの不潔と野卑と、暴力の跳梁と正義の不在の一方で、もはや「イってしまった人たち」としか思えないキリスト教徒の開拓者たち。アメリカ人の二つのルーツを見るようである。一見、ジョン・ウェインのいない西部劇と思えるが、実はウェインはちゃんといる。それは牛を移動させる牧畜業者のカルペッパーである (映画の原題は「カルペッパー牧畜会社」)。コロラドまで牛を運ぶという仕事を最優先にして、必要があれば銃を撃ち人を殺すが、必要がなければ、たとえそれが危機にある開拓者たちを助けるためであっても、地元のボスを撃つようなことはしない。その合理的割り切りぶりは男らしくもある。というより現実の中で唯一許された男らしさのあり方だろう。一向に風采の上がらない男(ビリー・グリーン・ブッシュ)だが、生存のために研ぎ澄まされたような無駄のない彼の生き方は、プラスアルファのユーモアや余裕を見せるジョン・ウェインの立ち居振る舞いが、ただ観客サービスのための虚構としか思えなくさせる力を持っている。「捜索者」の、限りなく悪人に近いウェインはいくらかはリアルなカウボーイの実存を見せるが、やはり、まだまだ英雄崇拝の残滓が感じられるのだ。この映画でも幾人かのカウボーイが開拓者を救うために立ち上がりはするが、彼らのほとんどがボスの手下の銃弾にかかって死んでしまうのである。

1972年 米 ディック・リチャーズ監督