金環蝕

 全く感興が湧かなかった映画だった。
 ①セリフが聞き取りにくい。
 ②映像が汚い。
 ③共感できる人物なし。
 35ミリの小さな画面が象徴しているような、日本の世知辛さ、ショボさ。悪人のことごとくが一面的で、単純でこすからく、かのジョン・ル・カレ描くスマイリーのごとき融通無碍、真の意味の怪物に達している人間は描出されていない。
 ④「金環蝕」という当時は先端的なメタファー(表と裏、ホンネとタテマエ)が、現在ではあまりに陳腐にすぎる。
 大物俳優多数出演が売りらしいが、いかにも政治家の風体をかもし出している役者を見ていると、しかもそれらが彼らの専門職のように板にはまっていたりすると、感心するというより気の毒になってくる。彼らが政治家というこの世の俗物をそれらしく演じている限り、主体は実際の政治家の側にあり、役者はそれ以上の存在にはなれない。演技は表現にならない。そのような演技に甘んじている俳優というのもつまらない仕事だと思った。彼らは押し出しも立派な人物になりきればなりきるほど、それはすなわち彼らの内実の空無を示しているかのように思われるのだ。彼らのそもそも役者を志した動機がなんとも不可思議なものに思えてくる。映画でヒーローを見たことの感動から、実生活でのヒーローになることより、ヒーローを演ずる役者を志望するということがある。ヒーローになることとヒーローを演ずることとの区別がつかないこと自体は責めようがない。しかしそのような動機から役者になり、60年代の理想の時代が終わって、虚構の時代が訪れたとき、演ずべきヒーローは消滅し、反動として本作のように露悪的人物を演ずるか、良くて等身大の人間としての政治家を演ずるより他に仕事がなくなる。なんとむなしい職業であることか。悪役が出来ないことを自覚している宇野重吉は、奇怪な入れ歯のメーキャップで望み、自ら洗濯板の如き貧相な胸部をさらしもしたが、見ているほうは、そんなもの見たくもないのである。森脇将光がモデルだというけど、森脇本人がこんな顔していたのかな。
 こういう、政治家が内国の利権ばかりに汲々と奔走している映画を見ると、常にすでに日本では外交というものが欠如していそうで不安になる。「金環蝕」についてはWIKIに詳しい記述あり、かなり面白い。これを事前に読んでいれば、セリフの聞き取りにくさがカバーできたはず。

1975年 山本薩夫監督