若者のすべて

 これなども見るべき時期を逸してしまった映画で、三時間という長尺のこの映画を苦痛を感ずることなく見ることができるのは、青春という感性豊かな時代においてでしかないだろうと思う。すでに若者ではなく、「いまどきの若者は―」というほど若者に関心もない人間にとっては、つまらないとしかいいようがない話で、このようなつまらないハナシの制作に大勢の映画人が金と精力を傾注し、見るほうもまた、それをあり難がって見ていたということがいかにも不思議なことのように思えてくる。あるいは、物語というものはこのように急速に(とはいえ五十年が経過しているのだが)衰えるものなのだろうか、という疑問も兆す。
 イタリア南部からミラノに出てきた、5人兄弟の母子家庭。彼らが信じ、あるいは囚われている道徳は、既にその根拠を喪失している。彼らが思い悩む愛というものも既に底が見えている。陽炎のような観念に振りまわされて、人間たちが泣いたり喚いたり殴りあったり、果ては殺したりするという話である。われわれはこの映画から家族は大事だ、などという教訓をしっかり受けていたのかも知れない。どんなにダメな人間でも家族である限り見捨てることは許されない、という家族観を普遍的な徳目として受け止めていたのかも知れない。確かにロッコの如く悲しくはかなげに嘆く青年は実在したのだ。そのような青年に愛惜の念を覚えもする。しかし、その一方でクリーニング店の女主人の篭絡やナディアの強姦シーンを、映画だけから得られるひそやかな快楽として享楽してもいた。この落差に無自覚であることが、このような物語を可能にしていた要因であることは確かである。

1960年 英・仏 ルキノ・ヴィスコンティ