勇気あるもの

 この映画を見た後は確実に猛烈に「ハムレット」が読みたくなる。新米の臨時教師が、落ちこぼれの合衆国陸軍兵士達に、「考えること」を教えるために、やむなくシェイクスピアの講義を始めだすという筋立ての中で、その教師の「教え」ようとする素人的な手つきの純粋さと、生徒たちの「教わ」ろうとする態度の中の、跼蹐した経験からくる現実性が結びついて、最後は実に幽遠な「ハムレット」の解釈に辿りつくのだ。
「この芝居では、王も王妃もプリンスも皆死んでしまう。生き残ったのは、フォーティンブラスとホレイショーだけ。つまり『兵士』と『学生』だけが生き残るんだ」
「ディープだな」
 六週間の授業のあと、このディープな解釈にたどり着いたのは、それら落ちこぼれ兵士の中かでも最悪の、全く存在感のない青年だった。彼は授業中もしょっちゅう居眠りしていた。眠ることは、彼にとって義父が暴力を振るう家庭からの逃避だったのだ。しかし、もはや、ただ居眠りしつつ時間をやり過ごそうとは彼はしないだろう。目覚め続け現実に直面しようとする意志が彼の中で芽生えだしているのが暗示される。その契機になったのは、紛れもなく「文学」を解釈する「主体」を自分の中に見出したということなのだ。
 この映画には他に、「聖クリスピンの祭日の演説」で有名な「ヘンリイ五世」が出てくる。同じく落ちこぼれの兵士がその演説を暗誦してみせ、鬼軍曹の心を動かすにいたるのを見ると、それだけ文学の遺産がある英米の国がうらやましくなってくる。十七世紀の言葉が足元の現実の中で生きている。我が国の文学にそのようなものがあるだろうか。漱石の復刻本もブックオフで百円で売られていたりするのが日本の現状である。
 この映画で初めて、「ルネサンス・マン」、レオン・バチスタ・アルベルティの存在を知った。法学、古典学、数学、演劇、詩作を良くしながら、建築・彫刻・絵画の実作家でもある「万能の人」。彼は音楽・運動にも秀で、両足をそろえたまま人の頭上を跳び越せた、とものの本に書いてある。

RENAISSANCE MAN 1994年 アメリカ ペニー・マーシャル監督