水戸黄門海を渡る

 テレビの水戸黄門の製作が中止になるという。これだけのロングセラーの番組も時の流れには逆らえない。現在の里見浩太郎はテレビシリーズでは8作目、2002年から実に9年間も続いている。ほぼ14年間続いた東野栄治郎のものに次ぎ、西村晃に並ぶ記録だ。映画も数多く作られている。戦前では実に50本、戦後は29本もの映画が作られた。本作は長谷川和夫が黄門に扮した唯一の映画らしい。
 水戸黄門を見限るほどには民度が高い新しい日本人の、私も一員なのか、やはり見るに耐えない映画だった。
 一つが内容。いきなりアイヌとの戦いという話になる。当然歴史公証はしているのだろうけれど、なんだか怪しげな話で、江戸の岡っ引きが公用で蝦夷に行ったりしているが、ありうる話ではない。最後は水戸黄門の、日本人もアイヌ人も同じだ、という言葉にくるめられてしまうが、史実はその理念とは全く正反対に動いたのは周知のこと。そしてロマン的なものは古びるのが早いのだろうか、作中の登場人物たちの酩酊を呼ぶ想念のことごとくが、もはや滑稽なほど無意味無効なものなのだ。戦前ならともかくもこれは戦後作られた映画である。あの戦争が終った後もこのようなありもしなかった民族融和の幻想に沈潜した映画を作っていたとは。敗戦の意味に全く気づかずにいるも同然の、日本の悲劇的な事態を目の当たりにする思いがして仕方がなかった。侵略国家たる欧米に敗北を喫したことを期に、かつてアイヌを滅ぼした自らの歴史に直面して、それを捉え直すべきだったのだ。「副将軍」と聞いただけで地べたにひれ伏してしまう、自民族の心性の拠って来るところを考えてみるべきだったのだ。
 もう一つが形象。辛うじて見るに耐えるのは、長谷川、市川雷蔵勝新太郎、という主役の三人くらいで、その余は、手足が短く、肩が小さく、胸も薄い、という風にとにかく貧弱な俳優たちの肉体。台詞回しもダミ声で叫ぶだけの芸のないもの。単調極まるイントネーション。こういう映画界に、戦勝国がハリウッド映画を持ち込んできた。その雄偉な肉体とダンスと音楽とを満載にして。勝敗は目に見えていた。

1961年 川内康範原作 渡辺邦男監督