エデンの東

 最近は「エデンの東」と言えば韓国のドラマが思い出されるらしい。こちらもスタインベックの小説が原作らしいが、韓国ではキリスト教がカルト化しているためかどうか、なんだか原作以上におどろおどろしい話になっているらしい。韓国映画はブームの当初こそ面白いと思ったが、その後も確かにいい映画もあるが、余りにエグい映画ばかり続くので、次第に見ないようになった。この「エデンの東」は、ついこないだまでは間違いなくこちらのほうが想起されていた、ジェームス・ディーンの映画の方の話だが、見ようによってはこちらにもエグいところがある。
 ジェームス・ディーンの繊細な演技とジュリー・ハリスの美しく紅潮した顔、というのがこの映画に対する愛惜の主たる要因だった。それは父が倒れて看病するラストシーンに極まる(ジュリー・ハリスのパラ色に染まる顔が美しい)ので、最後まで見てしまうわけだが、話の内容自体には、その前の、ジェームス・ディーンの有名な即席の演技、父への愛が拒まれ身悶えして抱きつくシーンの辺りから、違和感を覚えて引いてしまう。その辺りから良く理解できなくなってくるのだ。確かに兄弟の方ばかりえこひいきされて、親に冷たくされるのは堪えるだろうというのは良く分る。しかしあそこまで嘆き悲しむこともないだろう。泣くだけ泣いた後、兄への復讐を果たすともう親の愛などいらないと宣言するのも、話が簡単すぎる。これは元の旧約の話が不自然なのでそうなってしまうのだろう。
 旧約にある元の話は、アダムの子、カインとアベルのうち、神への供え物が理由もなく拒否されたカインが(嫉妬から)アベルを殺し、そのような状況を作った張本人たる神がカインを追放するという良く分らない話だが、映画では、神ならぬ父が、アーロンを妬んで彼にヒドい仕打ちをしたキャルを最後には赦すという話に変えてある。新約的な愛の思想が入っているわけだ。この辺のところは難しく考える事もなく、ああ父と子が和解したのか、というぐらいに受け止めて、後はただ映像美に浸っていればそれで満足だった。しかし、それは青春というものの心の戦ぎをジェームス・ディーンとともに生きる、という紛れもない私自身の経験であった。その経験の私にとっての意味を図るためには、いずれスタインベックの原作を読んでキリスト教というものに対する、私自身の親和と違和とについて、改めて考えてみなければならない。
 若死にというものは俳優本人にも観客にとっても一種の恩寵のようなもので、永遠に若い姿型にとどまるジェームス・ディーン(享年二十四歳で、その年で、高校生であるキャルに扮している)に較べて、ジュリー・ハリスは出演時既に二十九歳ではあったが、その後「刑事コロンボ」で中年になった姿を見たときは面影がまだあるだけにかなりガッカリしたが、印象的な存在だった酒場の使用人役の女性が、「ツィスター」の太ったおばさんに扮したロイス・スミスだと知ったときは、ガッカリは通り越して逆に少し嬉しく思ったものだ。

1955年 アメリカ エリア・カザン監督