トーク・レディオ

 ラジオでなくてレディオである。Diという音は既に日本語に侵入しているのだ。のみならずaeという音さえも。そんな話でお茶を濁したいほど、この映画の語りかけるテーマは暗く、絶望的である。原作者のエリック・ボゴジアンが自ら主演している。監督はオリヴァー・ストーンだけれども、シンガーソングライターならぬプレイヤーシナリオライターという比較的新しい存在のありようが興味深い。ハリウッド的興行映画の隆盛の傍らで、自ら制作・監督・出演するという映画の新しい製造流通体系が確立しつつある。
 一番面白かったのは、ラジオの人気DJたる主人公バリーが、バスケットボールのスタジアムにゲストとして参加したとき、観衆からブーイングを受けるシーンだ。彼の深夜放送を聞くような人間の間では人気者の彼でも、スポーツを観戦する「健康的な」アメリカ人からは、完全に否定すべき、排除すべき人間として扱われる。彼の番組の人気は、一躍全国ネットに番組を押し上げようとするほど過激なものだ。しかし同時に、そういう価値体系を厳然と否定する人間たちも存在しているということ。こういう「重層的非決定」を彼自身が全く認めていない、ということにわかには信じ難いことである。
 これは日本でひところあった(今でもあるのかも知れないが)ラジオ番組の中で、不倫の告白をしたりするのと同じような番組(ショック・ラジオ)を扱った映画だが、日本なら、結婚したばかりの若妻が昔の男とまだ付き合っているとか、年端も行かない少女が中年の男を手玉に取ったとかという告白を、タレントが大げさにギャーギャー騒ぎながら聞いて「大概にしとけよ」「ま、がんばってね」とか受け流す啓蒙的な番組になってしまうのだが、なにかにつけて神と向かい合っているアメリカとなるとそんなわけには行かない。受け答えするバリーの毒舌も、毒蝮三太夫の「きたねえババアだな」というのとは全然異質の言辞である。ユダヤ人抹殺を主張するネオ・ナチ、有色人種を否定する白人、果ては自分を抑えきれない強姦魔の犯行予告など、電話を通して果たしなく彼に押し寄せてくるアメリカの狂気を彼は番組で跳ね返し続けなければならないのだ。小包爆弾を贈ったという強迫電話をハナから無視したり、殺人予告があるのに、ガードもつけずに深夜の駐車場に一人で行くなどという行為は、狂気の世界にどっぷりつかっているバリーにしては信じられないほどのナイーヴさであり、その点悲劇を急いでいるような不自然さが感じられた。あるいはそれはバリーが憎悪の空虚な言辞より、憎悪の銃弾の実体性を信じたかった、そのためなのかも知れない。

1988年 アメリカ オリヴァー・ストーン監督