ヘラクレス

 アメリカでは、映画における光学というものがかなり早くに確立していた。白人種がいちばん美しく映る撮影法について、例えばフィルムの質から、光源と露出の設定から、現像のやり方にいたるまでノウハウとして確立させた。このノウハウから意識的な逸脱を図るのはおそらくニューシネマの時代からだろう。ノウハウの確立を可能にしたのは、消費資本主義世界の中に商品として流通する過程で手に入れた商業的な洗練である。確かに美しく安定した画像をアメリカ映画には常に期待できたが、逆に言えばそれはどんな映画を見ても同じような画面に見えるということに他ならない。映像という映画の形象のレベルでもそうだし、ストーリーという映画の内実のレベルでも、その種の商業的洗練の結果としか思えない、ある画一性が透視できる。従順な消費者としてその商品の体系に組み込まれる限り、その商品から快感が得られることは保証されるが、ときどきその快感の中で、映画館の椅子に座っていることが窮屈である以上に、精神的な窮屈さを感じるのだ。そしてこの窮屈さはやがてシステムに組み込まれているこの自覚により、不快感へと容易に転じてしまう。ディズニー・アニメの世界も同じようなことが言える。作劇上のあらゆる手法を熟知しているチームによって隙のないシナリオが書かれ、それを元に作画チームが組織的に動画に転換する。そこにCG技術者とミュージシャンが参加し、歌手たちが狩り集められる。さらに興行上の必要から声優に著名な俳優が選ばれる。極めてメカニックにシステマティックにこれらのアニメーションは産出され続けているもののように思える。そしてギリシャ神話やアラビアの物語や、近世の小説などをその組織力資本力で次から次に、素晴らしい娯楽作品に変えて、市場に送り出し続けている。快適なテンポの動画の文法に取りこまれ、悪役=ジャファー=フロロ=ヘデス、ヒーロー=アラジン=カジモド=ヘラクレスという平行的な物語の図式の中に快感ともにまたしても組み込まれていくのだ。この愉悦には唄というものが欠かせない。歌唱のパフォーマンスのレベルの高さは残念ながら日本人が及ぶところではない。この歌唱を堪能しそれに陶酔している限りではシステムの自同律の不快は現われないのだ。そして声優たちの語り口。ダニー・デビートの芸達者ぶりは当然としても、ヘデスの声がどうもどこかで聞いたことがあると思ってクレジットで見たら、それはジェームズ・ウッズだった。今まで彼の評価は爬虫類的なその顔がどうしてもその対象となっていたので、どちらかという点の低い役者の部類に入っていたが、声だけ聞くとそのノリが実に素晴らしい。その素晴らしさに俳優達の芸が直面している商業的試練の苛刻さを感じた。

1997年 米 ジョン・マスカー、ロン・クレメンツ