ブロークン・アロー

 たまたま「チャイナ・シンドローム」を再見したあと見た映画なので、この映画は核兵器の危険性を玩具にしているように思えた。「チャイナ・シンドローム」は原子力発電という核の平和的利用の局面であるが、むしろそこで原子力の本質的な怖さを訴求しているのに較べ、本作は原子爆弾であるのに、その怖さというものをまったく度外視し、核弾頭はただ闇市場での爆弾の価値という金銭的数字に置き換えられている。
 総発電量の28%が原子力発電によるもの(2009年、ヨーロッパ)ということと、世界の核保有量が人類を五回も滅ぼせるに足る量であることと、どちらが想像しやすいか。
 ここでは核弾頭は、単に拳銃から機関銃、大砲に向かう武器の拡大変異の、その延長線上にあるもののように捉えられている。武器の殺傷力というものが次第に増大していく中で、その殺傷力の量的増大が、質的変換に及んで、武器としての意味が変わっていることを無視しているわけだ。
 盗まれた二つの核弾頭のうち、一発は爆発してしまうのだが、まあ、爆発させないと映画の仕組み上持たないし、第一そうしないと観客の期待に応えられない。もっとも地下爆発ということにして、放射能汚染の危険を減らすという毒抜きはしてある。その結果、爆発のエネルギーで文字通り大地が波打つ特撮に、観客はおそらく単純に爽快感を感じてしまうのである。

1996年 アメリカ ジョン・ウー