我が心のボルチモア

 1914年東欧からアメリカに渡り、壁紙職人として働きながら、やがて百貨店の経営者となる息子を育てていく男の一代記であり、彼の兄弟縁戚たちの年代記である。主人公サム・クリチンスキー(アーミン・ミューラー=シュタール)が、独立記念日の祝祭に湧くアメリカの土を初めて踏んだ希望と興奮の瞬間から、老衰した晩年の、施設内で微かな記憶を反芻する生活を送るに至るまでの、家族や一族に起こる出来事を実に淡々と描く。淡々と、ではあるが、時代描出上必要とあれば、路上にずらーっとT型フォードを並べてみせる、などということが朝飯前なのはやはりアメリカ映画の地力である。
 移民たちは血族同士の結束が固い、というのは、やはり苦労を共にする、という形態に於いてのみ可能な美談なのだろう。一族で少しずつ拠金しあって、次から次へ縁者たちをアメリカに呼び寄せるような、彼等の固いファミリー意識にも、サムの息子たちが百貨店事業で成功を収めるに至ると、微妙な罅が入り出す。成功を妬み、サムたちのちょっとした言動のアヤを、金持ちの尊大さと受け取る屈折した意識が、やがて親族会を破綻させていく。そのサムの息子たちも新装オープンした店が出火するという不運に見舞われ、もとのセールスマンの暮らしに逆戻りしていく。しかし血族の中に一旦入った罅はもう元通りにはならない。一族の悲劇的な運命を語りながら、この映画がパセティックな陶酔から免れているのは、嫁と姑との確執の、双方の断絶を前提にしたドライな描写というキーノートと、全体の物語が老衰したサムの消滅していく記憶という事実の前にやがて無化されていく、という結末を持ってきている点などが上げられるが、最大の要因は、百貨店の共同経営者である兄弟同士の二組の夫婦の間で、何らかの性的なアトラクションがほのめかしもされないというような、性という人間にとってリアルなものを、徹底的に無視する方針にある。他人の妻への欲情などというものも、語られなければそれは存在しないのである。

1990年 アメリカ バリー・レヴィンソン