ローマの休日 (2)

 純粋な心の持続というものはかなわないが、少なくとも一瞬心が純化されることもあることを、確かな記憶として残したいという希求は普遍的なものだろうか。この映画は間違いなくその希求に応えうる映画である。存在しない王国の存在しない王女の物語。しかもそれを語るのは、美貌と良心を併せ持った青年である。その美貌はただ王女が恋するためだけに用意され、その良心は王女の恋を支えるためだけに用意されていた。良心は、野心を駆逐した。そのようなことがそもそも可能なのは、この世界が、野心の先にある希望に向けて開かれてあるからである。もしその世界に拒絶されても、少なくとも人は良心を持つことが出来る。なんという淨福であることか。
 この世界に性というものがまったく存在しなくとも世界は十分に豊穣で完璧である、とこの映画が私たちに思わせるに足る隠れた要件は、グレゴリー・ぺックに欠けているセックス・アピール、そしてヘプバーンに欠けて入る肉体というものだ。もしかしたらローマの街並みもその要件かもしれない。おそらくは性的なものが氾濫したに違いない、長い歴史の果ての淀みとして生息しているローマの街。その中で生きているのであれば、性的なものの汚濁はすべて街の方に預けることが出来るのだ。