ザ・エージェント

  非人間的なまでに巨大化した、スポーツ界のエージェント会社。この組織はあまりに巨大化したために、コミッションの数字以外にはいっさいの想像力が及ばないようになっている。「人間的」なところにまでは、とうてい想像力が届きえないのだ。かくてここにスポーツ選手の人間性の側に立つヒーロー、自らの人間性の回復をめざすヒーローが登場する。
 一つのパターンと言えばそれまでだが、お話というものが何かの物語の枠組みに拠っていることは、それだけでは非難できない。我々が認識できるものは多かれ少なかれパターン的なものだから。しかしそういうパターン内でも物語の質を高めることは出来るはずだ。巨大組織側を安易に戯画化せずに、そこでも生きられているはずの一回的な生をちゃんと提示すべきなのだ。その挑戦を受けずして、安逸に人間側につくヒーローの真の英雄性は完成されないだろう。敵を戯画化した上でその敵に勝利する物語は、低質なパターンであり、この映画もそのようなものである。
 本ヒーローは同時に家庭というものを救い出すヒーローでもある。華やかな虚飾の世界を捨てて、一路、離婚した子持ちの女性の元に愛の名の下に帰ってくる。これで彼は、先のパターン内で、成功する条件が整ったことになる。家庭をないがしろにする男には成功などさせてやるな。
 間一髪彼は身の破滅を免れる。彼の唯一のクライアントが、ロングパスを見事にキャッチして、奇跡的なタッチダウンを決めたからだ。かくて、人間関係のまずさの故に不遇を託っていたフットボール選手は、長期契約と高額の契約金を獲得し、老後の安泰が保証され、そのエージェントも、独立した事務所を維持できるだけのコミッションを得た。これもひとえにそのエージェントが人間性に目覚めたからである。―いや、そうじゃない。どう見ても彼の人間的営業活動の成果ではこれはない。どう見てもこの成功は、ロングパスをキャッチしたというその一点にかかっている。クライアントがそのために脳震盪を起し、家族や関係者を死ぬほど心配させたのも、良く考えれば全然人間的な要素でもなんでもない。映画を見終わると、何か人間性の側が、巨大な非人間的な組織に勝利したような感じがするが、それは錯覚である。第一エージェントがものにしたという「人間的」な業務改革提案書はその中身を示されてもいないし、示しようもないのである。

1996年 アメリカ キャメロン・クロウ