血と骨

  だいたい話がわかったところで、眠くもあるしやめようと思ったが結局最後まで見てしまう。戦前の貧しい日本の町並みの風景(言うところの「匂いのある風景」)がセットで忠実に再現されていて、旧懐の情を覚えたというのが、この殺伐とした映画を最後まで見終えることの一つの原動力だった。
 主人公金俊平とその不義の息子武が雨の路上で延々と喧嘩をするシーンの背後に流れた、あまりにも抒情的な音楽にすこしヘキエキする。これはどう考えても抒情的な場面ではないはず。というより映画全体がもっとハードな叙事的トーンで語られているはずなのだから、メロディーを前面に出した抒情的な音楽はいかにも場違いな感じをあたえた。蒙を開かれる思いがした宮台真司の小気味よい二項分断的な定義によると、叙事性とは世界が主観のなかに収まらないデタラメな様であり、抒情とはそれが収まりきる様である、とすると、一見想像を絶する暴力と非情の世界を描くと見せるこの映画は、叙事的なものであるというより実はもっとも抒情的な耽溺を含んでおり、とするとやはりこういう音楽を充てるしかなかったのかも知れない。そこの所が純韓国製の映画と、「在日」韓国人によって書かれ、日本人によって演じられた映画との違いなのだろうか。金俊平という男は単に寺内貫太郎の延長線上に、日本の父の延長線上に、ただそれに少し「手当たり次第に女を手込めにする」という放埓さを加えただけの、日本人の想像力の及ぶ範囲内で描かれている。ビートたけしは、彼が好んで演じる凶暴な男という意味では適役なのだろうが、いかんせんセリフ回しが悪い。別に朴訥に演じても良いのだが一箇所くらいセリフの声音で凄みが出てくる場面があっても良かった。近所中の人間が集まって、祝祭の中でのようににぎやかに豚を屠殺し肉を切り分け腸詰や怪しげな肉の漬物(蛆がわいたその漬物を、金は蛆をはらいつつ口の中に放り込む)を作るシーンは、「ギャング・オブ・ニューヨーク」のダニエル・デイ・ルイスを思い出させ、生きとし生けるものを食い尽くして存続する、生というものの原罪めいたものに思いを至らせる。

2004年 日本 崔洋一