父の祈りを

 映画の中に理想的男性イメージを求めるという志向性がまだ私の中にある。「ラスト・オブ・モヒカン」でマデリーヌ・ストウという美麗な「女性」に恋焦がれられる「男性」を演じたダニエル・デイ・ルイスの精悍な美男ぶりに陶然とした私は、あらかじめそのイメージの再現をこの映画に期待していた。その官能上の期待があっさりと裏切られたので、民族抗争と冤罪というテーマを重厚に描いたこの映画もあっさりと「期待はずれ」という評価を与えられてしまった。しかしそれは、その日暮らしの自堕落な生活を送るハシにも棒にもかからない青年の役を彼があまりにも見事に演じたことが、結果的に私の期待を裏切ったというだけのことで、俳優の職業上の技術と一観客の趣味的な嗜好とどちらが重要な問題かということの答えは自明である。であるから、社会的・思想的テーマを扱ったこの映画に官能的判断を下してそれで事足れりとすることにいくばくかの疚しさも感じていた。
 そこで、この映画の本来の側面である社会的思想的部分について批評的ディスクールをここでものにするという責務が生じている。
 時代・・・1974年頃、場所・・・ベルファスト
 この映画は決していわゆるハッピーエンドではない。実話に即しているので特に劇的に脚色したということはないにせよ、ラストシーンでは瞬間ハッピーエンドを迎えたときのようなカタルシスを感じる。しかし、「エンド」マークのあとに画面に現われるキャプションを読んで徐々にそのカタルシスの快感は消えていく。なるほど社会運動家的弁護士のおかげでも冤罪は晴らされる。しかし、そのときには既に獄死していた人間もいるのだ。第一失われた十五年という月日は取り戻せないし、それを償う有効な手段もない。そしてなにより、こういう冤罪を生んだ強引な捜査活動をした警察当局が何らの処分の対象にもならないのである。爆弾テロを終結させたいという大義の存在が警察側の違法行為を浄化する。
 宗教/領土戦争としてのアイルランド紛争、つまり秩序措定としての暴力と、警察という行政権力による人権蹂躙、つまり秩序維持としての暴力と、この映画では、二種類の暴力が語られているが、悲劇の軸は後者の方に設定してある。前者の暴力は後者の暴力の源泉であるという意味で、イギリスの良心的な部分が作ったこの映画といえども、まだ前者には深く踏み込んでいない。戦争の神秘を語ることは、保身的な警官の顔に浮かぶ他者としての顔を語るように難しい。

1993年 イギリス ジム・シェリダン