バクダッド・カフェ

 これもヘンな映画だ。フリークショー的なグロテスクな映画と思いきや、結局まっとうな人間賛歌で終ってしまうのだから。ヘンだヘンだと感じるのは、ひょっとしたら自分がヘンになっているせいか。要注意。
 まるでながいこと現像しないまま放っておかれたフイルムみたいに、色彩が緑の方にディストーションされ、変色してしまった映像。恐ろしいほどに寂しい土地。砂漠。孤立したモーテルとガソリンスタンドとカフェ。壊れたコーヒーマシーン。そこに突如降って湧いたように現れる、太ったドイツ女。手品師。掃除魔。下手な三文画家のモデルになり、段階的に大きな乳房を露出していく。このへんのシュールな話の展開は嫌いではない。しかし、彼女の手品のショーが評判になり、次第に唄あり踊りありという展開になってくると、少しヘンだ。同じシュールでもその質が違う。ミュージカルを見ながらふと我に帰り、あれ、誰がこの音楽を演奏していることになっているの、まあいいや、ミュージカルだから、とその超現実的な設定を許容してしまう、その次元のシュールさに切り替わってしまう。そんなに歌がうまかったら、なにもこんなカフェでくすぶっていなくともいいじゃないか。まして作曲する才能までもあるんだったら。逃げ出したダメ亭主のことなどくよくよ考えなくともいいじゃないか。
 結局、寂しさが身にしみる。その寂しさが、太ったドイツ女でも誰でも歓迎したくなりそうな閉塞した索漠とした日常に生まれる寂しさだ。アメリカの華やかな消費文明は、砂漠の中で没落する。そんなとき救いになるのはゲルマンだ。海の向うからやってきた異文化だ。ビザがなければ到底流入されないほど異質のもの。太ったドイツ女。収容所の女看守のようにも見える透明なまなざし。最後に、三文画家に結婚を申し込まれる。彼女が返事を保留するところで終る。多分結婚するのだろう。プロポーズは、アメリカ市民権を取得する手段になるという功利的な目的の擬制のもとに行われる。愛を理由として正面に立てたら、断られた場合無惨な傷を残す。その返事も友達に相談してからと条件がつけられる。愛より友情が優先する。愛は友情より傷つくから。
 黒人とドロップアウトの白人と、市民権のないドイツ女。彼らは人と人とが直接接しあうことの不可能性の中で生きている。そこで主題歌「calling you」が、人を恋求める心の切なさが、映画を見るものの心に滲みてくる。映画のサントラ版CDというものを初めて買ってしまった。

1987年 西独 バーシー・アドロン