ファーゴ

 この映画には徹頭徹尾「普通の人間」しか登場しない。うだつの上がらない中年のセールスマン。彼を取り巻く強欲で利己的な顧客たち。ここには営業という現場の一種のリアリティがあり、このリアリティの前には<顧客満足>などという経営スローガンが絵空事のように思える。しかしこう考えたほうが良い。つまりリアリティとは、将来の展望や可能性が奪われ生が衰弱したときに、一切のファンタジーを排した時点で人間が直面する生の実相である、と。生が高揚している局面では人間は全く別種のリアリテイーを手にすることが出来る。ともあれ、前者の衰弱した生が捉えるリアリティーの中に、これも強欲で利己的な義父やその追随者としての計算合理的な会計士、そして善人ではあるがそれだけの妻、気持ちの通わぬ子供がいる。そして彼ら全員が投入されている世界は、例えばたまたま警官殺害の現場に通りかかった親子が、巻き添えで殺されてしまうというような「不運」が常に一定量頒布されている世界である。その不運の量の目盛を押し上げているのは生の打開を図るセールスマンと、彼と請負契約を結んだ二人組みの犯罪者であり、目盛を押し下げているのは警察署員であり、女警察署長である。いつ終るともないこの対立する二種の力の拮抗の中で、人は不運の隣人としての生活を余儀なくされている。こんな世界の中で辛うじて一筋の光のように思えるのはカネというものなのだ。カネさえ手に入れれば、傲慢な顧客に媚を売る必要はなくなる。義父の独善性からも脱することができ、さらには不運というものに対して堅固な防護壁さえ構築することができる。かくてセールスマンは自分の妻の偽装誘拐を企てる。この計画が最初から破綻する運命だったのは、多分悪という機能を外部から補充するという構想にあったのだろう。悪という機能を一つの機械の部品のように装備したり取り外したり出来るという風に考えていたことによるのだろう。例えばその悪を自分の内面で引き受けていたら、例えばもっと巧妙に自らの手になる義父の殺害を企てていたら、仮に最後には破綻するにしても、泣き喚きながら手錠をかけられるような結末ではなく、この世界の「不運」と対等の位置に自分を置くことは出来たはずである。「不運」と対等である、ということは「不運」に断念と嘆息を用意することではなく、それに自らの「個体性」と「意志」とを対峙させてやることなのだ。
 女性署長に扮したフランシス・マクドーモンドが、一見おっとりとしていながら、要所要所で押しの強さを見せるという、小気味よい演技をしている(彼女はこの演技でアカデミー主演女優賞を受賞した)。その百戦練磨の署長も「なぜこんなことをするのか良く分らない、人の命はもっと大事なものだし、こんなに美しい日なのに」と思わず嘆息するが、「こんなこと」があるから、人はその都度生命の大事さに気がつき続けるのだ、と考えるのは絶望のしすぎというものだろうか。

1996年 アメリカ ジョエル・コーエン