戦場のピアニスト/ピースメーカー

 標記の二つの映画の共通点は何か。前者は第二次世界大戦ナチスの迫害を受けるユダヤ人ピアニストを描く映画で、後者はボスニア紛争と核のテロに対する米軍の戦いを描く。つまり共通点は「戦争」ということになるかも知れないが、昨日の続きで言うと、ノクターンの20番が作中で演奏されるという共通点がある。そもそもこの20番こそ「戦場のピアニスト」で有名になった曲で、私もこの映画で初めてその曲名を知った。しかしその曲自体を聞いたのはこの映画が初めてではない。初めて聞いたのが「ピースメーカー」である。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で妻と娘を失ったクロアチアの外交官がその報復にニューヨークへの核攻撃を目論む。アメリカに牛耳られているNATO指揮下のIFOR(平和履行部隊)が、平和履行どころか紛争を拡大していたのだ。いよいよ渡米する直前にピアノ教師でもある外交官が万感の思いをこめて弾くその曲がこのショパンノクターン20番(レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ)だった。20番は、「ゆっくりと、情感をこめて」という曲想を指定するタームがそのままその曲の通称になっているが、その曲想どおりの演奏だった。この曲のサワリである、あのダウンスケールのメロディー、不可能なほどの純粋の高みから不可避の流れとして降下せざるを得ない、人間精神の一瞬の気高さを現しているようなメロディーと、それを奏でる、黒鍵と白鍵の間を確信を持って綱渡りしているような、危ういようでいてしっかりとした指の動きに、魅せられてしまった(エンディングの指の形はどう見ても「月光」のそれのようであるけれど)。むしろ記憶に残ったのはメロディーそのものより、その指の動きだったと言える。
 後に「戦場のピアニスト」を見たときに、冒頭と終結部近くで奏でられる曲と、「ピースメーカー」で記憶に残った指の動きとが、実は同じ曲であることにすぐには気づかなかった。もしやと思い「ピースメーカー」の件のシーンをもう一度見てみると、紛れもなく同じ曲だった。しかし気づかないのも道理、「戦場のピアニスト」の方は、まるでレント・コン・グラン・エスプレッシオーネという曲想指定を無視するかのように、実にあっさりと軽やかな演奏であったのだ。弾き方によって同じ曲がこうも違う風に聞こえるものだろうか。この驚きと、それから最前の指の動きへの感嘆が、以前から思っていたピアノを弾きたいという夢想を現実の方へと押しやって、私は自らピアノの練習を始めた。そして現在では19番も20番も弾くことが出来る(弾けると言っていいのか、とにかく楽譜の通り指で辿ることが出来る)。最近目指しているのは、その軽い方の演奏だ。紛争のカジュアリティーとして妻と娘を殺された外交官と、ナチスホロコーストによって家族をすべて殺されたピアニストとの悲しみの深度の違いが、それぞれの演奏の曲想を異なるものににしていると思える。前者は、ニューヨークを破壊すれば復讐がかなうと信じ、妻と娘と二人の命と引き換えにニューヨーク市民全員の命を要求することの法外さに思い至らない。後者は家族の命を奪ったナチス軍人に自らの命を救われたという矛盾の中に放り込まれている。人間は等しく、敵・味方という図式の外側に、宿命の中にいる。報復の手段などこの世のどこにもない。このピアニストの絶望の深さが、軽快な魂の跳躍ともいうべきあの演奏につながっているのだろう。及び難いのはその音楽の方である。

戦場のピアニスト 2002年 仏・独・ポ・英 ロマン・ポランスキー
ピースメーカー 1997年 米 ミミ・レダ