戦場のピアニスト/ピースメーカー(2)

 ノクターン20番は、映画の冒頭と集結部にそれぞれラジオ局で演奏される曲として使われている。しかし実際は、ドイツ将校ホーゼンフェルト大尉の前で弾いた曲こそが20番だったのだ(シュピルマンの自伝ではノクターン嬰ハ短調を弾いたとあるだけになので、実は7番(op27-1)かそれとも20番なのかは解らない)。映画自体でもっと中心的な曲とされているのは、劇的効果のために、ノクターン嬰ハ短調の代わりに採用された「バラード第1番ト短調作品23」とエンドのタイトル・ロールで演奏される「華麗なる大ポロネーズ変ホ長調作品22」である。20番はその演奏の一部だけだが、バラードは「中抜き」ながら一応最後まで、ポロネーズは完全演奏となっている。
 映画を見たあとしばらくは寝床で就寝前にそのポロネーズを聴いていた。ある日ふと、「アウシュビッツの後で、このような美しい曲を演奏することは野蛮である」というフレーズが脳内に生じた。有名なアドルノの「アウシュビッツの後に、詩を書くことは野蛮である」という言葉の、ごく自然なパラフレーズ。しかし、それでも人は詩を書き、音楽を演奏する、ということが不可避のこととして確信されたときに、ある強烈な感慨に襲われた。レント・コン・グラン・エスプレッシオーネを弾くこともまた野蛮である。そのような「美しい」音楽への傾倒する人間の崇高さと、感情を切断する人間の絶対の残虐性とはどこかで通低している。死者へレクイエムを献じ、かつかつの美を自分の世界に残すことよりも、むしろ死者とともに美の不可能な世界の中に生きることを引き受けよ。そのこと以外に死者を悼む方法はない。美しいメロディーに共鳴する自分に心の中の美を称揚することをやめよ。なぜならお前こそ残虐の共犯なのだから。美しいハーモニーを連帯の比喩とすることをやめよ。お前はそこにつけこみ、そこから利を得ようとする外部の人間たちの、使い捨ての手先なのだから。
 「ピースメーカー」のテロリストはまだこの音楽に心をこめられる。この曲が妻や娘の慰めになることを信じることが出来る。そしてメロディーのはしばしに心を震わせることが出来る。しかし、シュピルマンにはもうこめるべき心はないはずである。死者はかってこの曲の側にいて、この曲が象徴するような甘い世界の中で夢見ていて、それからもっとも狡猾な方法でそこから追放されたからだ。この惨事を奇跡的に生き延びた彼の指は、だから絶対無答責の天使の指のようこの曲を奏でることしかできない。