もののけ姫

 録音のレベルが低いのか、声優の活舌が悪いのか、擬室町風の聞きなれぬことばのせいか、それとも私の耳が悪いのか、そもそも字幕スーパーの洋画ばかり見ているせいか、とにかくセリフがろくろく聞き取れないのが最大の難点。肉声によるエロスの力で物語の世界に引き込まれることがない、というのは映画においては致命的ではないか。もう一つの引き込む力としての音楽、それも良くない。もっともニューミュージック系のテーマソングみたいなものを聞かされるよりははるかにマシだけれども。残るは映像美ということになるが、これもそろそろ食傷気味。だいたい登場人物の顔がいつも同じだし、今回は特に同じ顔(思いつめた真剣な少女の顔)を同じ映画の中で、これだけズラッと並べられると嫌にもなる。擬人化された動物に、人間どもはけしからんというような説教を垂れられるというのも、考えてみればそろそろやめて欲しいパターンだ。
 この映画では一体何が対立しているのか。怨霊になったイノシシがある村に呪いをかけ、その呪いを解くために少年が旅立つ。イノシシがなぜ怨霊になったかというと、鉄砲で殺され大いに苦しんだからということらしい。その前に製鉄を業とする部族があり、彼らが製鉄のために山の木を伐り倒し、自然を荒廃に至らしめたということがある。一方でその製鉄族と「サムライ」が対立している。これは土地所有権をめぐっての争いらしいが良く分らない。網野史観の便宜的な適用か。セリフが聞き取れないのだからしょうがない。映画館で見れば、あるいはもっと音響効果が良くて一気に有無を言わさず引き込まれたのかも知れない。そうでなければこの映画があれだけヒットしたことの説明がつかない。もっとも映画があたるかあたらないかということについて合理的な説明がつくということ自体幻想である。単に「もののけ」という言葉にあやかされて、多くの観衆がつめかけたということに過ぎないのかも知れない。製作が多くのスタッフの分業からなり、そのスタッフのそれぞれがこれまでの業績から権威じみたものになって、その間の調整者が不在のため、こんなヘンな映画が出来上がってしまったような気がする。いくらヘンだと思っても、これだけ売れてしまった映画に意見する気力もないが、最後の、もう一度やり直そうと言って鉄を作り出すらしい結末はおかしいのではないか。製鉄=産業=自然破壊=人間悪、という構図はどこに行ってしまったのか。その問題提起は一体どのような解決をみたというのか。残るのは、一組の美男美女の恋愛成就という、誰からも文句が出ないような快感のパターンだけである。
 なぜか一般市民がひとしなみに、自分の被支配者という出自を忘れて、貴族や戦国武将という支配者に感情移入することによって時代小説というのは作られ、わが国の国民文学にもなってきた。物言わぬ常民を圧殺してきたこれら時代小説のパースペクティブは、確かに網野史観等に拠って刷新されるべきである。しかし、このアニメ映画はその作業の先鞭であるというよりも、この刷新がいかに困難な事業であるかということを、その興行的成功によって逆に証明したような作品であると思われる。

1997年 宮崎駿