ある貴婦人の肖像

 ジェーン・カンピオン監督には、「エンジェル・アット・マイ・テーブル」で失望したが(リルケの詩への思い込みから過剰に期待していた)、その失望は正しい。この映画も何ほどのこともない、ただのボーバクとした映画である。
 冒頭、雀の巣のような頭をした女性が出てきたが、誰あろうこれがニコール・キッドマン。どうやら十九世紀風のヘアスタイルらしい。タイトル・ロールでうっかり見落とした助演女優が、シューベルトをピアノで弾く後姿で登場、カメラがパンすると次第に斜め後の横顔が見え、そして横顔になり、そしてこちらを向くという風に、映画の中で顕現という秘儀を付与されて出現したのは、それは何とバーバラ・ハーシーだった(私はテレビドラマ「ワイオミングの兄弟」以来の彼女のファンである)。このように壮大にものものしく登場した彼女だったが、何分ニコールと較べられたら、それが雀の巣頭のニコールではあっても、第一、歳だし、あたかも魔女のような醜貌に見えるとあっては勝負にならない。高度な演技力を要する複雑な役回りならんと、尚も彼女の肩を持つが、結局なんだか良く分らない性格描写に終始した。彼女がそのかつての情夫のジョン・マルコヴィッチと共謀して、なにやら悪事を企むというので期待したが、いろいろ気を持たせた割には、その悪事というのは、どう逆さに振っても、ニコールと財産目当てに結婚する、というそれだけのことである。マルコヴィッチが企む悪としては、いかにも可愛らしすぎる悪だ。彼女を愛し、彼女に遺産が分配されるように手をつくした肺病病みの従兄弟、彼女に求愛しそして故なく袖にされた大富豪、ニコールの美貌に翻弄されるこれらの男たちを尻目に、知的な深い美声を持つオランウータンにしか見えないマルコヴィッチが、その腹黒い意図にも係わらず、いやその隠された意図ゆえに得恋するという皮肉。最後に死の床の従兄弟に愛を告白するのも、そのきっかけは従兄弟のキス。考えてみればこれも随分女性を馬鹿にしたような話だ。しかしここに女性監督起用の効用がある。原作者ヘンリー・ジェイムズに男性中心主義が残っているとは思えないが、映画からは濃厚に感じられるその色合いに対して、女性が監督したということにより、知性ある女性の同意をあらかじめ取り付けているわけだ。
「野心の強い女」であるバーバラのその野心とは、単に財産の獲得とだけしか思えないし、「好きなように生きたい」というニコールも、好きなことが出来る境遇にありながら、別に何かをするわけでもない。途中少し眠ったりしていたため、この映画にはもしかしたら私などにはうかがい知れぬほどの人生の真実とか何かが隠されているのを見落としてしまったのかも知れない。そうでなければこの映画に費やされた時代考証、衣装デザイン、セットの造営、ロケハンなどが途轍もない徒労のようにしか思えてこない。

1997年 イギリス ジェーン・カンピオン