或る人々

 ときどき、日本語に翻訳しようとする希少な意志に遭遇する原題があるらしく、それはときどきというより明瞭に、概ね原題に商業的なインパクトが不足していると思われる場合に、その原題を変質させようとする営業的な意図との遭遇なのだが、この映画の場合、なぜ原題をそのままカタカナにして「シャイ・ピープル」としなかったのか、「或る人々」に変えることによって、どんな効果を期待したのか良く分からない。沼地の奥で一般社会から孤絶した生活を送る人々をさして「シャイ」と称しているところをみると、「シャイ」にはもしかしたら恥ずかしがりや、とか人見知りする、とかいう以上の意味があるのかも知れないと思って辞書を調べてみたら、「用心深い」という意味もあり、こちらの方が少しは違和感が少ない。しかし、そういう違和感の限界的な減少はこの映画の場合ほとんど意味を持たない。なぜなら全編これ私にとっては全く違和感だけの世界だからだ。最後に曰くありげに引用された黙示録の一節もはたしてこの映画の主題にどう関係してくるのか分からない。それは生温いものより、熱いか冷たいかどちらかのほうが良い、という意味の言葉なのだが、そういうどうとでも解釈できる言葉を仰々しくありがたく引用するそのキリスト教的な手つきも違和感を生むそもそもの原因だ。そのコトバはこの映画では暴虐的な父のあり方の比喩としてあてられている。つまり一族が居住する沼地の中の島が洪水に襲われたとき、一族全員を救うために、妊婦の腹を殴ってまで洪水防護作業に狩り出し、結果的に一人の障害児を生みだした父の行為を、生温くない行為として端的には指している。一族はそんな父を憎み、脅えながら、その死後も父の呪縛から抜けきれないでいる。その呪縛は暴力が遺伝したかのように現れる、母の子に対する折檻、兄の弟に対する血腥い制裁に現れる。彼ら一族がそういう価値閉鎖的な世界で、その価値体系に庇護されて豊かに生活しているならまだしも、ここで描かれているのは単に変化する外界に適応できない気の毒な固陋な人たちであるに過ぎない。彼等の親戚が外部からコカインとウォークマンを持ち込みながら侵入し、彼らを啓蒙し、その父の呪縛を解くという話なら、それでもいいが、困ったことにその啓蒙者が沼地の霧の中に、死んでいるはずのその父の姿を見てしまうのである。これを単なる怪異譚として受け取っておけば良いのか、それとも価値相対的なこの世界から脱却するために、価値形成のための重りとして仕方なく、絶対者としての、飲んだくれた暴虐の父を出してきたという遠慮がちな主張を読み取るべきなのか。
 バーバラ・ハーシーが凄い汚れ役で出ていて、彼女のファンである私としては再起不能なまでに幻滅した。

1987年 米 アンドレイ・コンチャロスキー