秘密の花園

 車椅子、愛、そして奇跡的な回復、というのは偏愛された、しかしそれだけ使い古された感動のパターンである。車椅子から立ち上がれる人間はまだいい。しかし世の中の真の不運、不幸というものは、愛情を捧げられたくらいでは、車椅子から立ち上がれないのだ。
 この映画は多分原作の忠実な映画化なのだろうから、原作者バーネットがどっぷりとイギリスの階級社会の価値観に浸かっているということを、この映画から読みとっても大して間違っていないだろう。家政婦メドロック、召使いマーサ、執事、下僕という、この映画に現れる下層階級の人たちの、なんと自分の階級に自足していることだろう。下僕の一人の少年ディコンは美しい。主人公の伯爵子息コリンよりはるかに純朴な健康美に溢れている。彼は鳥の言葉を理解することも出来るし、花々の栽培にも通じているというように、自然の知に通暁した英明な少年である。しかし彼の自足ぶりからやがて彼がいかにも下僕のような凡庸な顔の大人になっていくのが予見される。彼は階級社会の中で育つ過程で必然的にそのような顔を手に入れるのである。それは彼を取り巻く社会の意志の結果であり、それ以上に彼自身の意志の結果である。大英帝国の長い馴致の成果はかくも偉大である。これらのことを過ぎ去った過去のことと思いなすのは、多分ヨーロッパの階級社会の根の深さを甘く見ていることにしかならない。
 植民地インドで大地震のため、メアリーの良心が死ぬ。それはほとんど歴史の劫罰のように思われる。そのような劫罰を招来したのは、たとえばクレイヴン伯爵の領地、羊でも放しておくしかないようなそのリバプールの荒地を、仔細ありげに石垣で区割りしておく人間というもののあくなき所有への意志にある。かくて貴族は貴族の言葉を習得し、下僕は下僕の言葉を習得していく。このささやかな感動の物語は、人間の愛の素晴らしさ、などといういい気な提言(人間の豊かな愛を信じるすべての人々に贈る、と製作総指揮のコッポラが語った由)に隠れて、ついでに階級社会というものをも理想的な調和社会のように描いてみせる。確かに花は咲き乱れ、小鳥は鳴き、過去の傷が癒されるこの世界。階級の外で子供たちがともに遊び戯れるこの世界は快適である。しかし、この快適さに安住するのはも下僕の眠りを眠る道なのだ。「人間の豊かな愛」を信じていないわけではない。この愛は今も継続的な試練にさらされている。薔薇、水仙エニシダや、駒鳥や車椅子の物語を持ち出すことは、その試練に際し、もはやなんら有効ではないのだ。

1993年 アメリカ アニエシュカ・ホランド