オリヴィエ・オリヴィエ

 同監督の作品「僕が愛した二つの国/ヨーロッパ・ヨーロッパ」もそうだが「オリヴィエ・オリヴィエ」、というふうに同じ言葉を繰り返すタイトルには何か呪術的な力がある。この二作品はいずれも、分身、変身をテーマにしており、そのテーマ自体にそもそも呪術的なものが含有されているのだ。その重畳的な言葉を唇に上らせてみると、微かに世界が変質をはじめる、その瞬間の微妙な感じを味わうことが出来る。二重化され相対化された世界の中に放り出される感覚を味わうことができる。
 冒頭で、少年のオリヴィエが消失する。世界から一瞬のうちに鮮やかに消しさられてしまうのだ。このときからオリヴィエは絶対の外部になる。絶対の外部として、残された彼の家族を照射し続ける。ところが後年、青年になったオリヴィエが「発見」され、家に帰ってくる。どこか怪しいところがあるこのオリヴィエが、その出現以降、絶対的な外部性を、内部性の回復でなく、外部/内部という二重的なものに変形させるのだ。そもそもこの外部/内部形成の動因は、実はある性欲/愛欲の挫折としての暴力/恩寵であったことが終結部で明らかにされるのだが、それは既に大方の作者/観客の想像の内にある。つまり、失われた少年のオリヴィエが受肉されたものとして現われる青年のオリヴィエは、作者/観客の内で明らかに同質/異質のもの、本物/偽者とは微妙に合致している/ずれているものとして受け止められている。ひとたび、外部/内部として排除/包摂されたものが、このように聖的/俗的なものとして消失/出現することは赦されないのだ。この聖者/俗物はその「姉」/「女」を誘惑し、「弟」/「男」がどうか疑心/確証のままでいる女/姉を犯してしまう。その後この女/姉は、青年オリヴィエが歌う唄を聞いて、紛れもない弟/男であると確信/誤信してしまい、近親相姦/情交という聖なる違反/堕落が完成/破壊されてしまったことに、衝撃を受ける。このような、どこまで行っても二重的な世界にやがて転機が訪れる。少年オリヴィエの変わり果てた遺骨が発見されたのだ。絶対の外部性はかくて証明されると同時に、その特権性から転落し、無惨な骨の塊りに変貌する。この転落をどのように救済できるか。この過誤をどのようにすれば回復できるか。オリヴィエを殺した同性愛者の男をつかまえ、処刑するしかない。そうすることによって、日常に外部を形成した犯罪者自身をまた絶対の外部にほうりだしてやるしかないのだ。

1992年 フランス アニエシュカ・ホランド