上海ルージュ

 そのストーリー自体にさして感銘を受けなかった映画について、その「映像美」をあげつらうのは、映画という商業的興行の世界に組み込まれている映画評論家のラスト・リゾートなのだろう。一介の映画愛好家に過ぎない私が、定式化されたストーリーがむしろない映画を好んで見、そしてその「映像美」にすぐ飛びついてしまうのことは、すでに彼等の流布した映画評論の文法に染められているということに過ぎないのだろうか。ハリウッド的エンターテインメントとは対極にあるアジア映画を見るとき、見る前から自然にこの映像美に過剰に期待してしまうのだ・
 この映画も「映像美」というのも愚かなほどの美に全編満たされている。魔都上海の人口の夜の輝き。悪が集積した富によって建造された建築の特権的な様式美。情婦チンパオの飾り立てられた肉体の輝き。一転して魔都の対照物としての貧しい離島の、幻想的な黄金色の黄昏と青い夕暮れ。
 しかしこういった妖しい映像美を支えている基盤は、ギャングとその情婦、情婦とその付き人、叔父と甥という風に確固とした支配・被支配の関係にある人間の、支配している側の人間の放つ耀きだろう。それは大衆社会の中で確実に消滅しつつある、ある古典的な美の様式なのだ。
 離島での貧しい暮らしを送る島民の牧歌的な善良さは、画面からこぼれるほどの夥しい夕暮れの光の中で描かれる。しかし彼らは魔都上海の夜の力によってやがて無惨に殺戮される運命なのだ。
 帆柱につるされた少年の逆転された視点から、この世界をさかさまに見ることによってこの映画は幾分消化不良気味に終る。ギャングのボスと彼に飼育される運命にあるある幼い少女の映像が瀕死の少年の視界の中でさかさまに揺れている。
 この映画が、上海の都会美と田舎の自然美、ハードボイルド的なギャングの世界と無垢の田園の世界とに分裂する中で、ヴィスコンティ的な血の優美さに迫り得なかった点に不全感を感じたのは残念だ。悪徳の不滅を知らしめるこの映画を、映像美という点だけで受け入れるためには、これほどの美の瀰漫する世界でも「優美さ」という点ではまだまだ不十分な気がした。

1995年 中国・フランス チャン・イーモウ