ソーシャル・ネットワーク

 いろいろな意味で刺激的な映画だった。アメリカの法曹界の法技術上の洗練ぶりにいまさらの如く感心する。彼らは法廷に持ち込んで社会的プレゼンスを得るべき事件と、和解に持ち込んで、時間を節約しながら実利を得るべき事件と、その対応の違いを心得ている。またハーバードのファイナル・クラブに見られるようなアメリカのエリートの凄さにも一種の感銘を覚えた。ハーバード大生というだけですでにエリートであるが、本物のエリートにはさらに何か排他性が必要なのだ。このような排他的エリートによってアメリカは仕切られており、それに対する反逆が成功するのは極めてまれなことなのだろう。まれであるからこそ、それは成功美談となり、こうして映画にもなる。しかし「フェイスブック」も創設時はそのクラブの人脈が活用されたのだから、反逆の例とはならないかもしれない。
 「フェイスブック」が儲かる仕組みがよく解らないけれど、創設者のマーク・ザッカーバーグがダサイという理由でずっと拒んでいた広告料収入に、結局はつきるのか。そこからサーバーの使用料を差し引いた分が収益で、この収益は投資会社が目をつけるだけの莫大な規模だ。その投資会社のあくどさも興味深い。彼等はただの金貸しではなく経営の仕組みをデザインする専門家なのだ。彼らは利益を生み出す仕組みを作るためには非情なことを平気で行う。その非情ぶりも堂に入っている。
 1969年、UCLAスタンフォード研究所間に回線が接続された時をインターネット元年とすれば、それから半世紀の間に起きた世界の激変には驚くばかりだ。その変化には、本作のマークのようなハッカーたちの貢献するところが大きいのだろう。とにかくネットから得られる利便性を最大限活用している人間たちの、そのライフスタイルの斬新さに刺激を受けた。

2010年 米 デビッド・フィンチャー